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SP長居
SP難波
まち西大橋
SP西船場
まち西長堀
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SP長居
1.長居公園地図
1.桜珈琲 長居公園店
2.YANMAR MARCHE NAGAI
3.ボタニカル ガーデン大阪
4.OSSO MARKET&KITCHEN
5.confiteria S(おみやげ)
6.ボウケンノモリNAGAI
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桜珈琲 長居公園店
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ぶらり関西歴史旅より
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スポット情報
まち西大橋
1間長涯天文観測の地碑・西大橋名板
富田屋橋
2堀江遊郭
3勧進相撲興行の地碑
4オレンジストリート
5ミュゼ大阪跡(現南堀江高橋ビル)
6堀江川跡碑・堀江新地
7パームス跡 (現浅尾ビル)
8喫茶店「LOOP」跡(現RIVER WESTビル)・アメリ力村
9御津八幡宮
10大坂屋銅吹所跡
1間長涯(はざまちょうがい)天文観測の地碑・西大橋名板
江戸時代初期に伏見の町人たちによって開削された長堀川は、昭和46年(1971)に埋め立てられ、道路の中央分離帯に
間長涯天文観測の地碑、富田屋橋の名板、 西大橋の名板があります。
間長涯(はざまちょうがい) (1756~1816) は、 富田屋橋北詰で、 十一屋(といちや) いう質屋を営む家に生まれた。
本名間重富(はざましげとみ)といい幼い頃から富田(とんだ)屋橋の上で星を眺めていた。
寛政7年(1795) 幕府の改暦(かいれき)にあたり高橋至時(たかはしよしとき)とともに出府(しゅっぷ)し、江戸浅草天文台で中国の 「暦象考成(れきしょうこうせい)」を基に3年で「寛政暦(かんせいれき)」 を完成させた。
その功により、幕府直参(ばくふじきさん)に取立てられる話があったが辞退し帰阪(きはん)。
その後、富田屋橋に英国製の観測機器を据え好きな天文観測に没頭した。
この時橋は通行止めとなるのですが、 堀江の住民で文句をいう者は1人もいなかった。
碑は昭和35年大阪市によって長堀川ほとりに建てられたが、 長堀川の埋め立てによりこの地に移された。
まち西大橋
富田屋橋
富田屋橋は、明暦3年(1657) から元禄元年(1688) の間に架けられたと思われており、当時土地の豪商、富田屋(とんだや)の屋号(やごう)にちなんで名付けられたとされている。
富田屋橋の橋上(きょうじょう)で、幕末の天文学者間長涯 (1756~1816) が天文観測をしたことは有名で、観測する時には一般の人を通行止めにしたと言われている。
大正5年2月には橋長(きょうちょう)44.6m、幅員4.5mの木製の橋に架け替えられた、
昭和2年8月に高欄(こうらん)、 照明灯などを鋼鉄製に取り替える改修が行われた。
その後、 昭和42年から同46年にかけて行われた四ツ橋から木津川間の西長堀川の埋め立てとともに、富田屋橋もその役目を終えた。
まち西大橋
2堀江遊郭
明暦元年(1655)、堀江新地に歌舞伎座が開業し、和光寺や阿弥陀池詣に人々が集まると「鷲屋」「小鳥屋」「鳩屋」などの茶屋が建てられ、これが堀江遊郭の起源です。
和光寺から西横堀まで、近接する幕府公認の新町遊郭を凌ぐほど賑わったそうです。
明治の頃には大阪の廓のなかで一番品位があるといわれました。
大阪大空襲で衰退して、昭和後期からは若者のおしゃれな街に姿を変えていきました。
まち西大橋
3勧進相撲興行の地碑
江戸時代初期、相撲興行は風紀を乱すという理由で幕府により禁止されていました。
しかし、 徐々に解禁され、元禄5年(1692)に、南堀江高臺橋(たかきやばし)橘通で大坂相撲の最初の興行が催されました。
高臺小学校跡には紀州藩邸がありました。
まち西大橋
4オレンジストリート
かつては橘通と呼ばれて、幕末の頃から家具屋が並ぶ「家具のまち」として知られていました。
現在は立花通と改称されて、通称をオレンジストリートと呼びます。
まち西大橋
5ミュゼ大阪跡(現南堀江高橋ビル)
アメリ力村開発の先駆者・日限萬里子(ひぎりまりこ)が堀江公園横に開店した力フェ「ミュゼ大阪」がきっかけとなって、家具店がアパレル店、雑貨店、力フェ、レストランへ次々に姿を変えて、おしゃれなまちに変貌しました。
まち西大橋
6堀江川跡碑・堀江新地
このあたりの湿地帯を開拓するために、元禄11年(1698)に河村瑞賢が堀江川を開削して堀江新地が造成されました。
仁徳天皇が開削したと記紀に書かれている「難波(なにわ)の堀江」から名づけられました。
新地開発にあたって、幕府は廻船の営業権発行や市場開設などの振興策をとり、さらに相撲、能、文楽の興行を許可し、遊郭を認可しました。
長堀川沿いの材木業、堀江川沿いの家具商や藍染業などで大いに賑わい、町人文化が花咲きました。
堀江川は昭和35年(1960)に埋め立てられて役目を閉じました。
まち西大橋
7パームス跡 (現浅尾ビル)
昭和52年(1977)、日限萬里子がこのビルの地下に「パームス・ディスコ」さらに1,2階にカフエとバーを開店して、大阪のディスコブームの火付け役、全国のカフェバーの先駆けとなりました
まち西大橋
8喫茶店「LOOP」跡(現RIVER WESTビル)・アメリ力村
昭和44年(1969)に、「アメリ力村のママ」と呼ばれた日限萬里子がここに喫茶店「LOOP」を開店しました。
当時の南炭屋町には材木業の倉庫が並んでいましたが、「LOOP」にサーフアーやデザイナーなどファッションに敏感な若者が集まり、周辺にアメリ力西海岸から持ち帰った古着やレコードなどの商店が増えました。
これがアメリカ村のはじまりです。
まち西大橋
9御津八幡宮
天平勝宝元年(749)大仏殿建立のために東大寺の守護神として宇佐八幡宮の神輿が難波の御津に上陸して、それを祀ったのが創始とされています。
まち西大橋
10大坂屋銅吹所跡
このあたりは炭屋町と呼ばれ、大坂屋銅吹所がありました。江戸時代初期に日本は世界有数の銅産国になり、主要な輸出品でした。銅の生産と流通を独占したのが長堀川沿いの大坂の銅吹商で、生産量は鰻谷(うなぎだに)の住友銅吹所が1位、炭屋町の大坂屋銅吹所が2位で、大坂屋は秋田の阿仁銅山からここまで銅鉱を運びました。
まち西大橋
SP西船場
①旧江戸堀川跡
②いちょう寺
③種木橋と筋違橋
④京町堀
⑤頼山陽生誕地と子三樹三郎
⑥六代目笑福亭松鶴誕生地
⑦地蔵盆
⑧長州大師・高野寺
⑨日本キリスト教大阪教会
⑩玉水町の名水玉乃井
⑪朝日新聞社創業の地
⑫長州藩蔵屋敷
⑬基督教青年会館(現YMCA)
⑭旧京町堀川
⑮阪神高速起点の碑
⑯花ノ井
⑰高野連
⑱路地裏の地蔵尊
⑲常安橋
⑳Salireレストランサリーレ
㉑21土佐堀レトロビル
①旧江戸堀川跡
昭和32年、埋め立てにより姿を消した江戸堀川沿いには旅館が多かった。
土佐堀のVIP専用の金森旅館。
美空ひばりも泊まった小西旅館。
地方からの商用客には出文。各種各様の旅館が並んでいた。
水上龍太郎の小説「大阪の宿」のモデルになっった「昭月」は土佐堀の青年学校前にあった
SP西船場
②いちょう寺
真宗西本願寺派浄光寺の樹齢300年の銀杏は「お化け銀杏」と呼ばれ、若い男女が詣ると想いが叶うと信じられた。
参詣者が絶えず、夜店が出て「銀杏煎餅」「銀杏鰻頭」まで売り出された。
迷信打破のため町奉行所では伐れ、本山は伐るなで、困った寺は乳房に見えるこぶから切ろうとすると、 命令者・実行者に巣りがあるとした。
寺に住みつく狸は真夏の夜にはだんじり離子をするなど、おどろおどろしい話もビル化とともに消滅した。
SP西船場
③種木橋と筋違橋
旧江戸堀川と西横堀刀に現在の阪神高速下)の合流点にあった橋では元は川幅が広く江戸堀川に架かっていた橋の中間から西横堀川を渡るようにT字型に橋があり、撞木に似ていたので糧木橋(しゅもくばし)となづけられた。
後に江戸堀川が狭められた関係で現在みられるような斜めの橋になり筋違橋(すじちがいばし)ができ、江戸堀川埋め立て後、 撞木橋はなくなった。
④京町堀
明治元年と明治36年の2回にわたり、明治天皇が船にて川ロに上陸されたこの京町通りを御通行された。
当時は市内を東西に大阪城まで行く主要道路であった。
SP西船場
⑤頼山陽生誕地と子三樹三郎
「日本外史」を書いた熱血の漢詩人、山陽の父春水は私塾「青山社」を江戸堀川畔に開いていた。
水上に藤棚を張り出し、風雅を楽しむ生活の中で山陽が誕生した。
山陽の三男、三樹三郎は江戸堀川南岸で勉学の時を過ごした。
父の思想の過激な部分を受け継いで幕末に行動したことから安政の獄にとらえられ、江戸小塚が原で斬刑に処せられた。
西船場小学校には「先賢景仰碑」がある。
東江戸堀のこの付近には江戸時代に、頼山 陽・篠崎三島・同小竹 ・後藤松陰・並河寒泉 らの多くの有名な学者や文人らが生まれ、
または寄寓して活躍していた
まことに誇るべき 文化の地であった。
先賢景仰碑は藤沢章 の撰文でこれら先賢の 偉績を讃えている。
⑥六代目笑福亭松鶴誕生地
五代目笑福亭松鶴は京町堀に住んでいて、六代目笑福亭松鶴はここで生まれた。
「初天神」の、親をうろうろさせるやんちゃ小僧だったのではなかろうか。
SP西船場
⑦地蔵盆
夏休みが終わる頃、地域の子どもたちの安全を祈願して、御地蔵さんの前に集まり、遊ぶ。ビルの街西船場には今も伝統民俗行事がある。
⑧長州大師・高野寺
明治13年、高野寺三蔵院を移し創建した寺で、縁日には夜店も出た。
明治20年、弘法大師が開いた綜芸種知院の名をいただいた。
昼間は女学校、夜は男子の学校が創設された。
同時期、土佐堀川船町ではミッションスクール梅花女学校が創設され式日には振り袖姿が闊歩した。
SP西船場
⑨日本キリスト教大阪教会
明治2年アメリカから派遣された宣教師2人が川ロの自宅で伝導開始。
明治20年、文化財として伝わる教会堂を建てた。
⑩玉水町の名水玉乃井
金光教玉水教会の名に地名を伝えている。
名水の出る井戸として摂津名所図絵にも描かれている。
SP西船場
⑪朝日新聞社創業の地
明治12年村山龍平社主によって現肥後橋センタービルの地に創業。
13年京町堀1丁目に、18年中之島に移転、今日に至る。
⑫長州藩蔵屋敷
大坂の陣後、基盤目状の道路と平行に水路が掘られ戦渦に追われた町民を呼び戻し、伏見からの移住者も受け入れて市街地復興がはかられた。
全国から集まる物産のため蔵屋敷が堀川沿いに造られたが、土佐堀沿いの長州藩蔵屋敷の名残は昭和中期まで見られた。
SP西船場
⑬基督教青年会館(現YMCA)
明治19年、長州藩蔵屋敷跡に伝導・教育の拠点として、赤いパン瓦屋根、煉瓦造りで建設された。
講堂は、さまざまな分野の演説会に使用され明治初期の進歩的な運動史によく会場名が出る。
⑭旧京町堀川
旧京町堀川は元和元年京都伏見京町の町民の移住により開拓された川で、東は西横堀川、西は現在の江の子島にあった。
百間堀川までの川で山崎豊子さんの小説にも出てくる。
SP西船場
⑮阪神高速起点の碑
阪神高速道路は昭和39年月にここより西横堀側沿って港町までの区間23.kmがはじめて開通しました。
⑯花ノ井
SP西船場
⑰高野連
SP西船場
⑱路地裏の地蔵尊
SP西船場
⑲常安橋
⑳Salireレストランサリーレ
SP西船場
㉑21土佐堀レトロビル
SP西船場
まち西長堀
1阿弥陀池・和光寺
2木村蒹葭堂(けんかどう)邸跡碑
3土佐稲荷神社・岩崎弥太郎
4西長堀アパート・司馬遼太郎
5鰹座橋跡
6玉造橋跡
7伯楽橋
8大阪木材売市場発祥の地
9白髪橋跡碑
阿弥陀池・和光寺
6世紀に仏教が伝来したとき、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が争って、
物部氏が百済渡来の我が国最初の仏像を「難波(なにわ)の堀江」に廃棄したと『日本書紀』にあります。
それがこの阿弥陀池とされています。
仏像は推古天皇10年 (602) に信濃の本田善光によって拾われて、
のちに善光寺に祀られました。
和光寺は元禄十一年(1698) 堀江新地開発のとき智善上人が建立した。
本尊は丈尺五寸 の金銅弥陀如来である。
境内の池から善光寺(長野) 本尊ともいわれる阿弥陀如来が 出現したことから、
通称阿弥陀池ともいわれ江戸時代から多くの人々に親しまれている。
木村蒹葭堂邸跡碑
木村蒹葭堂は、江戸時代中期の文人、画家、本草学者、蔵書家で、
北堀江の瓶橋(かめはし)北詰の造り酒屋の長子として生まれました。
書斎の庭に井戸を掘ったところ葦 (蒹葭) が出て、それを愛でて号としました。
幼少のころから好学多芸で、「蒹葭堂日記』によれば延べ9万人もの来客があり、
日本中の知識人が蒹葭堂を訪ねて大坂にやってきました。
膨大な蔵書は現在、内閣文庫に引き継がれています。
まち西長堀
土佐稲荷神社 岩崎彌太郎
土佐藩蔵屋敷が長堀川沿いのこの地にあり、
米、木材、鰹節、和紙、砂糖など土佐の特産物を扱っていました。
敷地内に稲荷神社があって、大坂町民にも 境内の桜見物が許されていました。
土佐の岩崎彌太郎が、廃藩置県のときに土佐藩の負債を肩代わりする条件で船3隻を入手して海運業を始めました。
明治6年(1873)に三菱商会を名乗り、それが三菱財閥の創業となりました。
このとき彌太郎は土佐主・山内家の三ツ柏紋と岩崎家の三階菱紋を合わせて三菱の社章をつくりした。
土佐稲荷神社の神紋のなかにも三菱が含まれています。
西長堀アパート • 司馬遼太郎
日本住宅公団 (現UR都市機構)の関西における高層住宅の第1号で、11 階建です。
作家の司馬遼太郎や作詞家の石浜恒夫らが入居していました。
司馬遼太郎は産経新聞連載の『竜馬がゆく』をここで 執筆しました。
まち西長堀
鰹座(かつおざ)橋跡
土佐橋、土佐殿橋とも呼ばれ、江戸時代 初期に架けられました。
北側には土佐名産の 鰹節を扱う問屋が集まり、 鰹座が形成されました。
薩摩、阿波、上総、陸奥などからの鰹節も 取引されたようです。
上総(かずさ:現在千葉県)
陸奥(みちのく:宮城県、岩手県、青森県)
玉造橋跡
ここに玉造橋がありました。
江戸時代の初めに大坂城玉造口の幕府与力・同心が増員のためにここへ移転させられたことで 名づけられました。
まち西長堀
伯楽橋
明治41年(1908)に市電専用橋として木津川に架けられた橋が伯楽橋です。 伯楽という伝説の島がここにあったということから 名づけられました。この地は木津川から運ばれる物資集散の要津(ようしん)でした。
大阪木材市売市場発祥の地
江戸時代初期に土佐藩の申請で、
当初は立売堀(いたちぼり)川に、土佐屋敷が白髪町に移転すると西長堀にも、
木材市場が許可され、 土佐、 日向、 紀州、 阿波、 尾張などの木材が集まりました。
以来、 西長堀川の浜では昭和に至るまでここで木材市が開かれていました。
まち西長堀
白髮橋跡碑
白髪橋は、寛永2年(1625) の長堀川開削から明暦元年(1655)の間に架けられたとされており、
白髪町(しらがまち)に架けられた橋として白髪橋と名付けられた。
「白川橋」 「阿弥陀橋(あみだばし)」 と呼ばれていたこともある。
「あみだ池筋」を通る市電の軌道敷設(きどうふせつ)のため、
大正8年4月には橋長45.7m、幅員 18.2mに掛け替えられ、
高欄(こうらん=擬宝珠)のデザインには葵の葉が採用され特徴ある景観が形成されていた。
白髪町の名前は、木材市場で土佐の白髪山の良材が取引されたことから 橋の名前になったという説と、
古代に大坂へ入港する新羅船が着岸していたので、
新羅が白髪に訛って白髪町や白髪橋に なったという説があります。
まち西長堀
SP野田阪神
ムスタファタコス
ムスタファタコス
難波葱と河内鴨 蕎麦料理 藤乃
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