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スポット情報(ま)
地図 スポット緑橋

古民家、町家、地蔵尊に大阪一の大ィチョウ 駅のすぐ北側を東西に流れていた千問川に架かっていたのが緑橋です。このあたりには町家や古民家が残り、いくつもの地蔵尊が迎えてくれます。平野川、第二寝屋川と水とのかかわりが深い地域で、鴫野・森(森之宮)という2つの集落の真ん中に位置して平野川の川浜になっていたところが中浜です


町家再生複合施設燈

空き家となっていた大正初期の町家を改装して平成20年(2008) に町家再生複合施設燈が開館しました。和風バーや力レー店、ブックカフェなどが営業しています。それぞれが建具、ガラスなどに大正口マンが息づく内装を凝らしています。

千間川と緑橋の碑


千間川は、明治元年(1868)に農業用水と水運のために開削された堀川で、高井田から平野川へ注ぎ、川幅約10m、延長が千間(約1.8km)ありました。20余りの橋が架かり、緑橋もそのひとつでした。農地の減少でその役目をなくして昭和42年(1967)から順次埋め立てら 窓れ、跡地は緑陰道路や公園として整備されています。

南中浜子安地蔵尊


もとは大阪城内の蓮如上人袈裟懸の松の傍にあったのですが、明治18年(1885)の淀川大洪水で平野川に流されて、この地に流れ着いたとされています。 むかしから安産地蔵、子安地蔵として功徳が伝わっています。

白山神社

応永年間(1400頃)には中浜・鴫野・森の各村の氏神として尊崇されていました。
織田信長による石山本願寺への攻撃で焼失し、豊臣秀頼が再建したものの大坂冬の陣で再び消失したと記録されています。
その後、元和 3年(1617)大坂城代・内藤紀伊守によって再建され、何度も改築が加えられて現在に至ります。
イチョウの木は大阪市内最大で、幹周り約5m、樹高約23mの名木で、大阪府の天然記念物です。

正回寺・中浜菩義塾旧跡

嘉永元年(1847)に正園寺の住職・寺嶋泰順が本堂を中浜の子どもや壇信徒の学びの場として寺子屋・中浜著義塾を開きました。
以来、明治になるまで受け継がれてきましたが、明治18年(1885)の淀川大洪水で水没して廃校のやむなきに至りました。

衛門橋杉山街道

大坂城の玉造口から京へ向かう街道が杉山街道で、平野川の衛門橋を渡って中浜村を通り、関目あたりで京街道と合流していました。
杉山は大坂城内にあった杉林で、徳川時代は遊山の場でした。
街道沿いの」R鴫野駅南側にはかつて杉山橋が架かり、関目には杉山通商店街が現存しています。中浜村は平野川と杉山街道が交差する水陸交通の要衝として栄えました。

第二寝屋川


戦後になって都市化が進展したことで、寝屋川への雨水の流入量が増大して溢水の危険が大きくなったたり寝屋川の水量 を二分して新しく第二寝屋川を開削し、長瀬川など南側からの水流を集めることにしました。
改修工事は15年かけたのち昭和44年 (1969)に完成しました。

中浜下水処理場

津守、海老江の下水処理場に続いて大阪市で3番目の下水処理場として昭和35年(1960) に通水しました。処理水は第ニ寝屋川に放流され、場内には「中浜せせらぎの里」が整備されて、桜並木は桜の名所になっています。(処理場内道路は6--18時に開門されます。)

東本(とうほん)稲荷神社

むかしから衣食住の神様、商売繁栄の神様として知られていました。天正4年(1576)の兵乱で神殿を焼失し、豊臣秀頼によって再建。しかし元和元年(1615)の大坂夏の陣で再び消失し、江戸時代に再建されましたが、明治18年 (1885)の淀川大洪水で再び流出するなど、何度も興亡を繰り返してきました。

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