



蒲生四丁目駅周辺は通称「がもよん」と呼ばれて、戦前に建てられて戦火を免れた長屋・古民家が多く残って独特の情緒を漂わせています。
「がもよんにぎわいプロジェクト」は下町風情や古い町並みを生かしつつ、古民家を飲食店や雑貨屋などに再生するプロジェクトです。
すでに30数軒の店舗がおしゃれな空間をつくりだし「2000世帯以上の住民が流入した」と評価されて、公的資金に頼らない都市再生の「がもよんモデル」として注目されています。

すぐ南に流れる鯰江川の右岸に沿って形成された集落が蒲生村で、川の周囲は低湿地なので村は一段高い蒲生堤の上に開けました。
井路川が縦横に走った水郷農村で、特産品は湿地に育つ良質の蒲。
蒲穂は火傷薬や蒲団の材料に用いられ、蒲生の地名もここから生じたとされています。


若宮八幡は仁徳天皇を祭神として、社殿が西向きなので西向八幡とも呼ばれています。
大坂冬の陣では、徳川家康は大坂城を攻略しようとここへ佐竹義宣(よしのぶ)軍1,500の兵を送りました。
迎え撃つ豊臣軍は蒲生堤の3カ所を切断し、4重の柵を設け、さらに淀川を決壊させてあたりを2mほど水没させ、矢野正倫(まさとも)と飯田家貞がそれぞれ 300の兵で応戦しました。
慶長19年(1614) 11月26日夜明け、若宮八幡に本陣を構えた佐竹軍が攻撃を開始し、堤上の柵を次々に撃破して、防戦一方になった矢野と飯田はあえなく討死しました。
そこへ豊臣軍は木村重成が大坂城から出撃して戦況は謬着状態になり、さらに後藤基次が参戦して佐竹軍を押し戻した。
佐竹義宣は大和川対岸の鴫野で戦っていた上杉勢に救援を求め、戦闘は激しさを増しつつ次第に徳川軍の優勢に傾き、豊臣軍は大坂城へ撤退しました。

行者講とは、奈良県の大峰山で厳しい修行を行う信仰者の集まりで、 江戸時代に蒲生行者講がうまれました。
ここに祀られている不動明王、役行者(えんのぎょうじゃ)、弘法大師像は大正末期頃から記られて、まちの守護神としていまでも篤く信仰されています。

鯰江川は、北河内の低湿地帯に滞留する悪水を排除するために、江戸時代以前に掘られた堀川で、名前は鯰が多く棲んでいたからといわれています。
近隣農村の井路川が三郷橋(今福交番付近)で合流して鯰江川となり、最大川幅30mで寝屋川にほぼ並行して流れ、天満橋の手前で大川に注いでいましたが、昭和5年(1930)の、寝屋川の改修で埋め立てられました。
大正6年(1917)、三郷橋近くの川底から、古代人が水運に用いたとされるクスノキをくりぬいた丸木舟が発掘されました。

鯰江川の堤防上の道が古堤街道で、大和道・野崎道とも呼ばれて大坂と奈良を結ぶ幹線道路でした。
野崎観音詣でに土手道を行く人と川を船で行く人が掛け合う上方落語がよく知られています。
街道筋を歩くと、埋め立てられた鯰江川跡の道路が堤防上の街道より階段状に低くなっていることがわかります。

京橋駅寄りに、総江川に架かっていた蒲生橋の親柱も残っています。
8.蒲生墓
大坂の陣後に荒廃した大坂の復興事業が実施され、そのひとつに市内に散在していた墓地を整理集約する施策がありました。
大坂七墓がこうして生まれ、大坂庶民のあいだに七墓参りが流行しました。
七墓とは、千日前・小橋・梅田・濱・葭原(よしわら)・鳶田(とびた)と蒲生で、蒲生と濱の墓地が現存しています。


そもそもは古堤街道と京街道の分岐点に建てられた江戸時代の道標で、京阪モール建設のときにこの地に移転しました。
「右大和ならのざき」 「左京みち」と刻まれています。

そば 冷泉
IL CONTINUO













13.旧小西家住宅 (きゆうこにしけじゆうたく)中央区道修町一丁目
[国の重要文化財 ]
空襲で木造の商店が並ぶ船場の町並みは姿を消し、今は近代的なビル街に変身してしまった。
そんな中で往時のたたずまいをそのまま残しているのが旧小西家住宅で、昔の船場の雰囲気が偲ばれる。
[土蔵造りの3階建て表屋造り]
表屋造りは、道路に面してオモテに店、中庭を介してオクに住居。
その外装から「烏御殿」との別称もある大きな商家建築。
大通りから見える黒々とした外観は、もともとは隣接する幹線道路である堺筋拡幅の際に建物を一部取り壊し、補修した際に施されたもので、この建物がもともと持っていた意匠ではない。
登録文化財の過程を経て現在は重要文化財に指定されている。
大阪商家を代表する近代和風建築で、都市の中心部にある姿には、大阪の誇りと美学を感じる。
明治2年(1869)製薬業として創業したが、明治17年(1884)アサヒビールの源流である「アサヒ印ビール」を製造・販売。サントリーの創業者・鳥井信治郎も丁稚としてここで働き、酒の取り扱いについて学んだ。
現在は「アロンアルファ」や「ボンド」で有名な接着剤と化成品事業の会社『コニシ』の社屋。
旧社名は小西儀助商店だったが、昭和51年(1976)に現社名の『コニシ』に改称した。
明治36年(1903)築、[国の重要文化財]
【旧小西家住宅史料館】
住所
大阪市中央区道修町1丁目6番9号
入館料 無料
電話番号 06-6228-2847(コニシ株式会社 総務部
受付時間 10:00 ? 12:00、13:00 ? 17:00
(土日祝・夏季休暇・年末年始は除く)
アクセス
◆大阪メトロ
堺筋線「北浜駅」5番出口より徒歩約1分
◆京阪電車
京阪本線「北浜駅」27番出口より徒歩約6分










