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スポット情報(あ) まち朝潮橋 阿波座 今里ライナー 江坂 恵美須町 まち扇町 大阪港・天保山 大阪城 大和田街道 まち朝潮橋

1朝潮橋・世紀の森土工事

新田として開発された港区には、水利や運搬に利用された井路川が網の目のように通じていました。
明治36年(1903)、 西区の花園橋から築港に至る築港大道路 (現在のみなと通) が完成したときに、
井路川に多数の橋が架けられました。
朝潮橋は、 井路川を拡幅した安治川運河 (八幡屋運河)に架けられた橋です。
港区は、地盤沈下と高潮被害から土地を守るために、
昭和23年(1948) に区域内の490haの面積に2mの盛り土で嵩上げして
区画整理するという前代未聞の大事業に着手しました。
強い反対もありましたが、工事中にジェーン台風に襲われて大きな被害が出たにもかかわらず、
盛り土が完了していた地区には高潮被害がなく、
これを機に工事の機運が高まり、建物だけでなく市電軌道と道路の嵩上げ、
社寺の移転、 公園・学校の整備もなされるという世界でも類のない世紀の大工事となりました。
同時に安治川を拡幅し、
三十間堀川と天保山運河を浚渫して河川改良を図り、採取した土砂を盛り土に利用するなど、
工事は20年近くの歳月を費やして完成しました。
朝潮橋が消えたのも昭和26年(1951)に安治川運河が埋め立てられて盛り土されたからです。
朝潮橋駅は築港大道路に敷設された大阪市電の 停留所名になっていましたが、
橋が消えたあとにも駅名は残り、市電廃止後、現在ではOsaka Metro 中央線の駅名に受け継がれました。



まち朝潮橋 2三津神社・夕凪

三津神社は、明和元年(1764)に石田三右衛門が石田新田を開発するときに天照皇大神を勧請したのが創始とされています。
明治の晩年に田中産土(うぶすな)神社(大海大神(おおあまのおおかみ))を合祀し、さらに大正期に八幡屋(やはたや)住吉神社を合祀して、昭和になって社号を三津神社と改称しました。
昭和42年(1967)に盛り土工事と換地により安治川近くから現在地に移転しました。
地名のタ凪は、近くの井路川に架かっていたタ凪橋から生じたものです。
大阪市電唱歌には「波は音せぬタ凪や」と歌われています。

まち朝潮橋 3唯称寺

唯称寺は安治川拡幅工事で現在地に移転しましたが、もとの場所は現在の安治川に面して、門前から安治川を渡る「松の鼻の渡し」がありました。
慶応4年(1868)に鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜が大坂城を脱出して海路で江戸へ逃げようとしたとき、ここから天保山沖の軍艦に向かいました。

まち朝潮橋 4三先天満宮

天保6年(1835)、池田屋大吉が新田を開発するにあたって勧請し、現在の三先、池島地区の氏神となっています。
戦災と台風で大きな被害を受け、盛り土工事と港南中学校の拡張に伴って現在地へ遷座されました。
末社の「寝牛社」は牛の形をした霊石で、かけらを煎じて飲むと眼病に効くとされ、頭から首にかけて削り取られています。

まち朝潮橋 5三十間堀川

三十間堀川は天保山運河と尻無川を結ぶ短い水路で、明治時代の港の埋め立てエ事で放水路として埋め残された部分といわれています。
現在はコンクリートの背高い護岸擁壁に遮られて外から水面が見えません。

まち朝潮橋 6勝利の女神(池島公園)

台座に「当公園と彫像は、地元の人々の多大な協力によってすすめられた、この歴史に残る土地区画整理事業を記念して建設されたものであり、他の20数力所の公園とともに、新しい地域社会の憩いの場となることを念願する」と書かれ、大事業を成し遂げた地元の人々の誇りが「勝利の女神」として表れて、昭和55年(1980)に建造されました。

まち朝潮橋 7八幡屋公園

文政12年(1829)に八幡屋忠兵衛が開発した八幡屋新田の地に、大正12年(1923)に競泳プールや陸上競技場、野球場などを備えたl2haの大阪市立運動場として建設されました。
戦後には国際大会を開催する陸上競技場として改装され、国際見本市会場にもなりました。
その後、陸上競技場は長居公園へ、見本市会場はインテックス大阪へ移設しましたが、平成9年 (1997)に「なみはや国体」を開催するにあたって、大手前にあった大阪市中央体育館と扇町公園にあった大阪プールをここへ移転しました。
体育館は樹木の覆う小高い山になった半地下構造の外観が特徴的です。

まち朝潮橋 地図 スポット情報 MAP阿波座 スポット阿波座 埋め立てられた堀川

昭和31(1956)年まで、現在の阿波座付近には阿波堀川(あわぼりがわ)(阿波座堀川 ともいう)とよばれる堀川がありました。
慶長5(1600)年に開削された堀川で、
今の本町通と阿波堀通との間を、東の西横堀川から西の百間堀川(ひゃくけんぼりがわ)まで、
東から西へ流れていました。
阿波座という地名を聞いたことがあると思いますが、
その名前の由来はこのあたりに阿波蜂須賀(はちすか)家の屋敷があり、
また阿波(現在の徳島県)の商人が多く住んでいたことからなどともいわれています。
阿波堀川の名前はこの阿波座に由来すると考えられています。


明暦(めいれき)(1655~1658年)の頃、周辺には材木問屋、
船宿などがあり、西側には雑魚場魚市場(ざこばうおいちば)がありました。
後に大阪府庁が置かれた江之子島(えのこじま)も近く、
かつては今よりもずっと賑わっていた場所だったのです。
本町道とあみだ池筋との交差点は岡崎橋と呼ばれていますが、
橋の名前が唯一残されています。
今ではこの岡崎橋の名前と、
大阪西郵便局の横にある埋立ての竣工を記念する石碑が、
ここに堀川のあったことを伝えてい ます。
(大阪市教育委員会事務局 文化財保護課)

歴史探訪194
阿波堀川跡碑 (西区江之子島2丁目 大阪西郵便局)
     
川口基督教会




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地図 スポット情報 恵美須町 スポット情報 1.鼬(いたち)川・名呉(なご)橋跡

四天王寺建立のときに木材を運搬する目的で開削され、
イタチが掘ったという伝承のある川がここを東西に流れていました。
鼬川の紀州街道に架かっていた橋が織女の伝説を受けた 名呉橋で、
大坂町奉行所がここから以南を紀州街道と定めたという記録があります。
名呉橋は現在の阪神高速1号環状線えびす町入口のところです。


2.今宮戎神社

聖徳太子が四天王寺西方の守護神として創建した古社です。
当地は古代には「津江庄」「今宮庄」と呼ばれる漁村で、
祭神に戎神と同―とされる事代主神(ことしろぬしのかみ)を祀り、
古来、漁業の神として崇められてきました。
やがて商売繁盛の神として毎年1月の十日戎は、元禄年間から伝わる祭事として新年の大阪の風物詩となっています。


3.廣田神社

神功皇后が三韓征伐からの帰途、難波(なにわ)の海を鎮めるために天照大神の荒魂を祀ったという伝承があり、難病悪疾の護り守として信仰されています。
漁村・今宮庄の守護神で、毎年正 月に御所へ2尾の鯛を貢いだという記録が残っています。浅い海に生息するアカエ(アカエイ)が神使(しんし)とされています。


4.長町・日本橋

江戸時代は紀州街道に面してして旅寵(はらご)や木賃宿(きちんやど)が並び、長町と呼ばれて旅人で賑わいました。
『東海道中膝栗毛(ひざくリげ)』の弥次さん・喜多さんも投宿しています。
やがて無宿者が集住して治安が乱れたので、寛政4年(1792)に北側半分が日本橋と改称され、明治にすべて日本橋という町名に変わりました。


5.秩父宮同妃両殿下台臨記念碑

昭和初期、不良な長屋が密集していたこの地区に、
大阪市が市営改良住宅を建設して斬新な模範住宅として注目され、
昭和12年(1937)に秩父宮殿下・妃殿下の訪問があり、記念碑が設置されました。
やがてベランダに小部屋が増築されるなど容貌が変化して俗に「軍艦アパート」と呼ばれるようになり、
平成18年(2006)にすべて取り壊されました

br> 6.眺望閣・五階

明治21年(1888)、このあたりにできた遊園地の一画に六角柱状の5階建ての眺望閣という展望塔が建てられました。
六甲山から淡路島まで見えると評判を呼んで、周囲に茶店、露店が集まり、一帯を 「五階」と呼びました。
翌年に北野村(茶屋町) に9階建ての陵雲閣が建てられて「ミナミの五階・キタの九階」と大阪名所になりました。


7.でんでんタウン8.オタロード

明治半ばになると日本橋には古着や古道具を扱う店が集まって「掘り出し物の町」として賑わいました。
その流れで多くの古書店が出店して学生や文化人など流行に敏感な人々をひきつけ、やがてラジオや蓄音機などを扱う店が増え、日本橋電気街が誕生しました。戦後の復興も早く、時代に即応した電気器具を扱う店が密集して電気街として地位を固め、昭和53年(1978)には「でんでんタウン」という愛称がつけられました。


8.オタロード

平成になると郊外型の家電量販店に押されて次第に勢いを失いましたが、
マニアックなゲームソフトやアニメ関連の店舗が急増して再活性化し、電気街からオタク街へと劇的な変貌を遂げました。
近年では海外からの観光客も多く、堺筋の西側は「オタロード」と呼ばれて新たな賑わいを見せています。


9.大乗坊(毘沙門天)

四天王寺の守護寺院として創建されましたが、石山合戦のときに現在地に移り再興されました。
明治期までは寺領千坪といわれた大寺院で、「長町の毘沙門さん」と呼ばれて信仰を集めていました。


10.難波御蔵・難波新川跡碑

享保17年(1732)の大飢謹から幕府はここ難波村に米を備蓄する蔵を設置しました。
「なんばパークス(旧大阪球場)」の場所で、米蔵が8棟もある大規模なものでした。
米の搬入のために道頓堀川から引水して難波新川(難波入堀川)が掘られました。



地図 スポット情報 まち扇町 1.扇町・扇町公園

天満堀川があった頃、現在の天神橋筋に扇橋という橋が架かっていました。
大正2年(1913) に開業した大阪市電の駅名は扇橋駅で、やがて周辺を扇町と呼ぶようになりました。
江戸時代、天満堀川に面して備前藩の蔵屋敷がありましたが、明治になって取り壊され、明治15年 (1882)そこに堀川監獄(大阪監獄署)が造られました。
梅田一帯の発展に伴って大正9年(1920)に監獄を堺に移転 (現・大阪刑務所)、跡地を扇町公園として整備しました。

まち扇町 2.大阪プー ル跡

日米国際選手権水泳大会が大阪で開催されるに際して、昭和25年(1950)に扇町公園内に大阪プールが建設されました。
巨大な円形アーチ型の22,000人の観客席で「最も観客席の多いプー ル」としてギネスブックに掲載されました。
プロレスにも使用され昭和32年(1957)に行われた世界ヘビー級選手権試合「力道山対ルー・テーズ」の名勝負はいまでも語り草です。
老朽化によって平成8年(1996)港区八幡屋公園に移転しましたが、公園の西南角に当時のコース飛び込み台がモニュメントとして残っています。

まち扇町 3.成正寺(じょうしょうじ).大塩平八郎の乱

全国で30万人の餓死者が発生したとされる天保の大飢謹 (1833-4837)では、幕府や豪商が米を囲い込み、米価は6倍に跳ね上がりました。
大坂東町奉行所の与力だった大塩平八郎は大坂城の米蔵打ち壊しを決意して、天保8年(1837)2月19日、養子・格之助と同志門弟25名で「救民」の旗を掲げて早朝に武装蜂起し、近在から300名もの町民が参集して豪商蔵を襲撃し大坂城を目指しました。
これが大塩平八郎の乱です。幕府は2,000名で迎撃し、反乱はタ刻に鎮圧されました。
大塩親子は3月27日に靭本町の潜伏先を急襲されて自爆死しました。
大塩の乱のあと、 幕政の混迷は深まり幕末を迎えます。
幕府逆臣につき墓は許されず、明治になって東寺町西端の成正寺に大塩父子の墓碑が建てられました。
天神橋筋角の蓮興寺には大塩家の墓所があります。

まち扇町 4.天満堀川

阪神高速12号守口線の位置に天満堀川が流れていました。
慶長3 年(1598)堂島川から北へ開削され、この堀川を境に寺町が西と東に分かれて形成されました。
大塩の乱の翌年に北へ延伸されて大川につながりました。
堤に桜が植えられ、川には屋形船が往来し、対岸の桜ノ宮とあわせて絶好の花見の名所になりましたが、昭和43年(1968)に埋め立てられ、その上に高速道路が建設されました。

まち扇町 5.堀川戎神社

6世紀、欽明天皇の時代に創始されたとされたとされる古社です。
江戸時代中期ごろから商手繁盛を願つ1月10日の「十日戎」は盛大で、今宮戎神社、西宮神社(西宮戎)と並んで三大戎とされることがあります。

まち扇町 6.天満西寺町

江戸時代は北野村の静かな寺院町でしたが、いまでは梅田に近づくにつれて繁華な街並みに寺院がのみこまれています。かつての西寺町の面影を求めて寺院の門前をめぐってみましょう(ほとんどの寺院は―般公開されていません)。

光明寺

文禄4年(1595)に開創された浄土真宗のお寺です。北野村の東端にあたります。

夕願寺(せきがんじ)

法華宗のお寺で、天文 5年(1536)に西成郡新家村から移転したとされています

蟠龍寺(ばんりゅうじ)

浄土宗のお寺で、元和元年(1615)に順應上人が中興したという記録があります。

冷雲寺

浄土宗のお寺で、文禄4年(1595)に開創され、昭和20年(1945)の空襲被害も奇跡的に免れたそうです

西福寺(さいふくじ)

慶長17年(1612)に開創された浄土宗のお寺で、俳譜談林派の祖・西山宗因の墓があります。

龍渕寺(りゅうけいじ)

浄土宗のお寺で、慶長19 年(1614)に開創されました。

圓通寺

曹洞宗のお寺で、元和2年(1616)に開創されました。

本傳寺

日蓮宗のお寺で文禄年間 (1590年頃)の開創です。

法界寺

浄土宗のお寺で、文禄2年 (1593)に開創されました。

善覚寺

浄土真宗のお寺で、天正8年(1580)に開創されました。

まち扇町
地図 スポット情報 スポット大阪港・天保山     渡船情報(天保山渡船場) 天保山渡船 動画写真をクリック 夕日の名所 大阪湾ATC 夕日の名所 大阪湾中央突堤ダイアモンドポイント

圧巻の大阪湾中央突堤ダイアモンドポイント。
全面ウッドデッキの展望スペースからは天保山の大観覧車はもちろん舞洲や南港も一望できる

地図 スポット情報 スポット大阪城 大坂城石垣のたのしみ
「大阪城 豊臣石垣館」 いよいよオープン

令和7年4月1日、大阪城公園にあらたに文化財の展示施設、 「大阪城 豊臣石垣館」がオープンします。
大阪城公園の大部分は、 「大坂城跡」として国の特別史跡に指定されています。
その大きな 特徴として、
豊臣秀吉が築いた大坂城と徳川幕府により築かれた大坂城、
2時期の城が同じ 場所に重なって存在している
ということがあげられます。
豊臣期の大坂城は、大坂夏の陣で落城した後、
徳川幕府による大坂城再築に際して、
盛土により完全に埋められたため、現在、地上で見ることはできません。
「大阪城 豊臣石垣館」は、
この地中に埋没している豊臣期大坂城の 石垣の一部を発掘調査により掘り出し、
常時見学していただけるよう整備された施設です。
施設のオープンにより、豊臣期・ 徳川期2時期の石垣を実際に見てくらべることができるように なります。
2時期の石垣の主な違いとして、使用されている石材や角部分の積み方の違いなどがあげられます。
豊臣期のの石垣は大部分が野面(のずら)石 (自然石) を使用していますが、
徳川期の石垣は割石を使用しています。
角部分は、 いずれも 角石(すみいし)の長手方向の向きを交互に変えて積む
「算木積み(さんぎづみ)」という技法が使われています。
一方、豊臣期は形状がさまざまな石材を角石としているのに対し、
徳川期は直方体に精緻に加工した石材を角石とし、
その脇に角脇石(すみわきいし)と呼ばれる石材を配置して、
さらに角石の角度が石垣角部分の稜線に対してほぼ直角になるように積むことで、高い強度を生み出しています。
こうした石材の加工技術や石積み技術の進展によって、より高い石垣を築くことができるようになったのです。
高さでは徳川期の石垣に及ばない豊臣期の石垣ですが、
さまざまな形・大きさの石材1つ1つの特徴を見極め、巧みに組み合わせて積み上げていった石工の高い技術を感じることができます。
春の訪れとともに咲く大阪城公園の花々とともに、ぜひ大坂城跡の石垣をたのしんでいただきたいと思います。

(大阪市教育委員会事務局 文化財保護課)
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