三軒家は海から木津川をたどって市中へ向かう大坂の玄関口でした。
江戸時代には諸国の船が住来し「千石二千石の大船、出帆あり着船あり」と賑わい、 天下の台所、日本経済の中ぺ地となった大坂を支える港でした。
明治になって日本の近代紡績工業が発祥したのもこの地です。

かつて木津川と尻無川に挟まれた現在の三軒家あたりは姫島と呼ばれていましたが、
中村勘助が慶長15年(1610)に豊臣家のために軍船係船所や船着場の整備を行い、
その功により勘助島と名づけられました。
宝永5年 (1708)には江戸幕府がここに木津川口遠見番所を設置し、海運拠点として―帯の整備を進め、
ここが大坂経済を支える玄関口になりました。


大正区域は運河に囲まれた島状の地形であるため、
周辺の地域とは渡し船でのみ往来できました。
大正4年(1915)、架橋への住民の願いが実現して、
市電開通とともに、幅員19m、支間長90.6mの当時日本では最長のアーチ鉄橋が架設され、
新しい時代を開く美しい橋として大きな話題になりました。
昭和7年(1932)に新しい区が生まれたとき、大正橋の名前から大正区と決まりました。

大正橋の東側の碑には、安政元年(1854)に大坂を襲った安政大地震に因る大津波の惨状と「後人の心得・・・願くば心あらん人、年々文字よみ安きよう墨を入れ給うべし」と後代に伝えてほしいという先人たちの願いが記されています。
現在も地元の人たちによって碑文に墨が入れられています。

JR環状線の木津川橋梁は鉄材をX字に組んだ長さ106m、長方形・箱型の白い鉄橋で、非常に頑丈ですが鉄材を多く使うのでいまでは珍しい構造です。
ダブルワーレントラス形式と呼ばれ、三角形を組み合わせたトラス橋に比べて高さが2倍ほどあって橋脚もありません。
JR大正駅の反対側に同型・同規模で緑色の岩崎運河橋梁があり、双子の鉄橋と呼ばれています。

大波橋のたもとにある碑には、正面に「わたし勘助島」、右面に「すくちかみち なんば 今宮 天王寺 住吉 あミ田池 道頓堀」と刻まれています。
渡船は勘助島と木津川対岸の難波島を結んでいました。大浪橋は大正区と浪速区から1字ずつ取って名づけられました。

このあたりはかつての難波島のー部で難波村と地続きでした。
江戸時代から船大工が多く住み、大正期には造船所が15社もあり、現在も工場街となっています。
百済橋は難波島西側を流れる三軒家川に架かっていましたが、川の上流部が埋め立てられたため廃橋になりました。



この神社は寛永2年(1625)に三軒家の住民が氏神として建立しました。
のちに創建された中村勘助の八坂神社を上之宮、当社を下之宮と呼びます。
向かいの呑海寺は寛文10年(1670)の台風で周囲が浸水したとき、浜に打ち上げられた菩薩像を安置したのが起源とされておりいまでも「波除観音」として敬われています。

大正区にはもう一つ、おすすめの夕陽ポイントがある。
それが大正内港だ。
ロープで係留柱に繋がれた作業船。
それらの船のわきに取り付けられた古タイヤがあちこちでギシギシと音を立てる桟橋は、
耳にも印象的なうえに、千歳橋、なみはや大橋、港大橋を望むダイナミックな風景を撮影することができる。

庶民的な街並みが広がる大正区三軒家。防潮堤の階段を上がって西に見える夕陽は、まさに大阪版「ALWAYS3丁目の夕日」だ。
渡船情報(落合上渡船場)









圧巻の大阪湾中央突堤ダイアモンドポイント。
全面ウッドデッキの展望スペースからは天保山の大観覧車はもちろん舞洲や南港も一望できる
スポット千鳥橋
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