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       大念仏寺
       カレー店マカリイ

               パンとお話 Appleの発音


       全興寺
       あひる珈琲
       門前茶屋おもろ庵
       末吉家住宅主屋
       焼き菓子多福
       かたなの博物館



             
地図 スポット情報 まち堀江・西大橋

1間長涯(はざまちょうがい)天文観測の地碑・西大橋名板


江戸時代初期に伏見の町人たちによって開削された長堀川は、昭和46年(1971)に埋め立てられ、道路の中央分離帯に 間長涯天文観測の地碑、富田屋橋の名板、 西大橋の名板があります。
間長涯(はざまちょうがい) (1756~1816) は、 富田屋橋北詰で、 十一屋(といちや) いう質屋を営む家に生まれた。
本名間重富(はざましげとみ)といい幼い頃から富田(とんだ)屋橋の上で星を眺めていた。
寛政7年(1795) 幕府の改暦(かいれき)にあたり高橋至時(たかはしよしとき)とともに出府(しゅっぷ)し、江戸浅草天文台で中国の 「暦象考成(れきしょうこうせい)」を基に3年で「寛政暦(かんせいれき)」 を完成させた。
その功により、幕府直参(ばくふじきさん)に取立てられる話があったが辞退し帰阪(きはん)。
その後、富田屋橋に英国製の観測機器を据え好きな天文観測に没頭した。
この時橋は通行止めとなるのですが、 堀江の住民で文句をいう者は1人もいなかった。
碑は昭和35年大阪市によって長堀川ほとりに建てられたが、 長堀川の埋め立てによりこの地に移された。

まち堀江 富田屋橋

富田屋橋は、明暦3年(1657) から元禄元年(1688) の間に架けられたと思われており、当時土地の豪商、富田屋(とんだや)の屋号(やごう)にちなんで名付けられたとされている。
富田屋橋の橋上(きょうじょう)で、幕末の天文学者間長涯 (1756~1816) が天文観測をしたことは有名で、観測する時には一般の人を通行止めにしたと言われている。
大正5年2月には橋長(きょうちょう)44.6m、幅員4.5mの木製の橋に架け替えられた、 昭和2年8月に高欄(こうらん)、 照明灯などを鋼鉄製に取り替える改修が行われた。 その後、 昭和42年から同46年にかけて行われた四ツ橋から木津川間の西長堀川の埋め立てとともに、富田屋橋もその役目を終えた。

まち堀江 2堀江遊郭

明暦元年(1655)、堀江新地に歌舞伎座が開業し、和光寺や阿弥陀池詣に人々が集まると「鷲屋」「小鳥屋」「鳩屋」などの茶屋が建てられ、これが堀江遊郭の起源です。
和光寺から西横堀まで、近接する幕府公認の新町遊郭を凌ぐほど賑わったそうです。
明治の頃には大阪の廓のなかで一番品位があるといわれました。
大阪大空襲で衰退して、昭和後期からは若者のおしゃれな街に姿を変えていきました。

まち堀江 3勧進相撲興行の地碑

江戸時代初期、相撲興行は風紀を乱すという理由で幕府により禁止されていました。
しかし、 徐々に解禁され、元禄5年(1692)に、南堀江高臺橋(たかきやばし)橘通で大坂相撲の最初の興行が催されました。
高臺小学校跡には紀州藩邸がありました。

まち堀江 4オレンジストリート

かつては橘通と呼ばれて、幕末の頃から家具屋が並ぶ「家具のまち」として知られていました。
現在は立花通と改称されて、通称をオレンジストリートと呼びます。

まち堀江 5ミュゼ大阪跡(現南堀江高橋ビル)

アメリ力村開発の先駆者・日限萬里子(ひぎりまりこ)が堀江公園横に開店した力フェ「ミュゼ大阪」がきっかけとなって、家具店がアパレル店、雑貨店、力フェ、レストランへ次々に姿を変えて、おしゃれなまちに変貌しました。

まち堀江 6堀江川跡碑・堀江新地


このあたりの湿地帯を開拓するために、元禄11年(1698)に河村瑞賢が堀江川を開削して堀江新地が造成されました。
仁徳天皇が開削したと記紀に書かれている「難波(なにわ)の堀江」から名づけられました。
新地開発にあたって、幕府は廻船の営業権発行や市場開設などの振興策をとり、さらに相撲、能、文楽の興行を許可し、遊郭を認可しました。
長堀川沿いの材木業、堀江川沿いの家具商や藍染業などで大いに賑わい、町人文化が花咲きました。
堀江川は昭和35年(1960)に埋め立てられて役目を閉じました。

まち堀江 7パームス跡 (現浅尾ビル)

昭和52年(1977)、日限萬里子がこのビルの地下に「パームス・ディスコ」さらに1,2階にカフエとバーを開店して、大阪のディスコブームの火付け役、全国のカフェバーの先駆けとなりました

まち堀江 8喫茶店「LOOP」跡(現RIVER WESTビル)・アメリ力村


昭和44年(1969)に、「アメリ力村のママ」と呼ばれた日限萬里子がここに喫茶店「LOOP」を開店しました。
当時の南炭屋町には材木業の倉庫が並んでいましたが、「LOOP」にサーフアーやデザイナーなどファッションに敏感な若者が集まり、周辺にアメリ力西海岸から持ち帰った古着やレコードなどの商店が増えました。
これがアメリカ村のはじまりです。

まち堀江 9御津八幡宮

天平勝宝元年(749)大仏殿建立のために東大寺の守護神として宇佐八幡宮の神輿が難波の御津に上陸して、それを祀ったのが創始とされています。

まち堀江 10大坂屋銅吹所跡

このあたりは炭屋町と呼ばれ、大坂屋銅吹所がありました。江戸時代初期に日本は世界有数の銅産国になり、主要な輸出品でした。銅の生産と流通を独占したのが長堀川沿いの大坂の銅吹商で、生産量は鰻谷(うなぎだに)の住友銅吹所が1位、炭屋町の大坂屋銅吹所が2位で、大坂屋は秋田の阿仁銅山からここまで銅鉱を運びました。

まち堀江 本町~淀屋橋 スポット本町北・西横堀東 スポット本町南・西横堀東(まちさんぽ) スポット本町北 ①北御堂

浄土真宗本願寺派津村別院です。
織田信長と石山合戦で和睦したあと、石山本願寺を退去した門徒衆は、その後、秀吉から天満に寺地の寄進を受けて坊舎を建設し、そこから慶長2年(1597)に津村(圓江つぶらえ)の現在地に移りました。

北御堂ミュージアム

本願寺と大阪の関わる諸資料を収集、調査、展示し、併せて広報活動を行うことにより、別院を訪れる方々へ、大阪と本願寺・北御堂の関係性を周知させ、歴史を通じて、文化の発展に寄与するとともに、寺院との関係をつなぐことを目的として2019(平成31)に開館した

②御堂筋・最初の地下鉄

北と南の御堂を結ぶ御堂筋は、江戸時代には幅3間(5.4m)の狭い道でしたが、関一(せきはじめ)市長が大阪の大動脈として道路を拡幅し、同時に地下鉄を建設するという決定をしました。
「2階建て工事」 として注目された難工事でしたが、地下鉄は昭和8年(1933)に梅田・心斎橋駅間が開通し、御堂筋は昭和12年(1937)に完成しました。
御堂筋沿いのビルは高さ百尺(約30m)に制限され、現在は50mへと緩和されましたが、美しい都市景観を保っています。

③御霊神社

このあたりは圓江(つぶらえ)と呼ばれる大阪湾の入江になっていて、 天皇即位祭肥の八十島(やそしま)祭を執り行っていた祠が神社のはじまりだとされています。
江戸時代には御寮人(ごりょんさん=商家の若奥様)と語呂が合っていることから民衆に親しまれ、山片蟠桃(ばんとう)、緒方洪庵(こうあmm)、福沢諭吉も参拝しました。
明治17年(1884)に 人形浄瑠璃の劇場「御霊文楽座」ができ、文楽二百年の歴史のうちでも、近世文楽における黄金期のにぎわいを見せる。
その碑が建っています。
船場商人の社交の場として賑わいました。
そのため周囲にはうどんすきの「美々卯」などが残っている。

④北野家住宅

木造3階建の民家ですが、大阪大空襲であたり一面が焼け野原になったとき、大阪ガスビルディングと北野家住宅だけは羅災せず、奇跡の家といわれました。
国の登録有形文化財です。

⑤大阪ガスビルディング

国登録有形文化財 南館 昭和8 (1933) 年 北館 昭和41 (1966) 年
■大阪ガスの前身の大阪瓦斯会社は、明治30 (1897) 年 4月に設立。
永らく渡辺橋の南詰に社屋があった。
これは、 明治38 (1905) 年の建築で総レンガ造りであった。
もと朝日ビルのあった辺りである。
■その後、 一時堂島浜通1丁目に仮本社を設けたが、 朝日新聞社の用地であった平野町5丁目(現4丁目)の土地と旧社屋とを交換することになり、昭和 5 (1930)年4月新築工事に着手。
昭和8年3月に竣工した。
『船場 風土記大阪』 宮本又次著
現ビル南館は、昭和8 (1933) 年竣工。
設計は安井武雄で、 当時最新式のモダンな建物といわれ、 彼の作品の中でも最高傑作と評価されている。
御堂筋を立派な街並みにしたいとの行政側の意向を受け、 御堂筋が出来る 4年前に完成している。
■曲面を活かし、水平線を強調したデザインは軽やかで、上階の壁面には白色の磁器モザイクタイルが使用され、 1、2階の外壁に使われている黒御影石が上階を地面と切り離したように見せる手法は、まるで水に浮かぶ船のような印象を与える。
■このビルが完成したころは、 まだガスは人々に普及しておらず、 薪や炭による煮炊きをしていた。
それに対してガスは瞬時に着火し、 また制御しやすく、より強力な炎をもたらすことを大阪市民に伝え、 広める役目もこのビルは担っていた。
■ガスを普及させるためにガス器具の陳列場と実演場、 ガスビル食堂では、 すべてガス器具を使って調理された本格西洋料理が提供された。
映画・コンサートも開催したり、 学士会倶楽部や モダンな酒場も併設され、 大阪における文化活動 交流の拠点の1つとなった。
織田作之助も この学士会倶楽部の将棋会に通っていたという。
戦時中は空襲の標的にされないよう、 外壁をコールタールで真っ黒に塗装した。 そのおかげで かわからないが一部の罹災のみで焼け残った。
■ビルの南側のファサードの4階のでっぱりは、 当初講演場の映写室だった部分。
■西側角にある階段は、 2階講演場からの非常時の避難経路として、 講演場内部より直接屋外に 避難できるよう、 道路に面してバルコニーと非常階段が設けられて、 安全面にも万全の配慮が なされている。
「OSAKA GAS Building Story』 より 『中央区史跡文化事典』 参考
■北館は安井の意思を継いだ佐野正一の設計で、 昭和41 (1966)年に建設されたが、 南 北館が 見事にマッチしている。
昭和初期のモダニズム建築を代表するアール・デコ様式の建物で、設計者は安井武雄。
「都市建築の美の極致」と称賛されています。

⑥謎の鳥居

江戸時代までは、神仏習合で「神宮寺」という神社に付属して建てられたお寺がありました。御霊神社にも神社とともに「寶城寺(宝城寺)」と言われる神宮寺が併設されていました。当時の境内は、今より広かったようで、明治時代の神仏分離令により、そのお寺の敷地が国に没収されました。その際、ここにお寺があったことを残すために鳥居を立てた。お寺はなくなりましたが現在も神社の南側に鳥居だけが残った。時は流れ中井エンジニアリングのビルが建ったのです。その中井エンジニアリングも本社を移し現在は駐車場となる。

⑦京町堀川

京町堀川は、元和3年(1617)に京・伏見から移住してきた町人によって掘られたので、伏見堀とも呼ばれた。京町堀には伏見町人らの商家が多く、京町堀川の両岸には各藩の蔵屋敷、船宿などが並んでいました。昭和36年(1961)に埋め立てられました。

⑧呉服橋(伏見呉服橋の碑

豊臣秀吉の大坂築城に際し、天正12年(1584)頃、京・伏見の呉服商人らは玉造に居住させられました。江戸時代になっても伏見呉服町の商人らが大坂城内や蔵屋敷で必要とする呉服の用達をし続け、呉服商人も増えたために玉造の土地が狭くなり、元禄時代に伏見町に移転し、伏見呉服町と称しました。呉服商人や呉服に関係する商人らが居住した呉服町は、各店の暖簾の色が異なり、「呉服町の五色暖簾」として有名でした。西横堀川の東に広がる呉服町につながる橋が呉服橋です。戎橋、大黒橋と呉服(五福)橋を合わせて七福神の橋という酒落もありました。

⑨墨屋作兵衛

寛政4年(1792)に亡くなった墨屋作兵衛は、呉服橋の架け替えや修繕費用に充ててもらうために遺産を町内に託しました。墨屋の宅地は町内保管、家屋は町会所となっていましたが、明治に入り、恵美須神社の敷地となり、遺産を使って本殿、拝殿、社務所が新築された。恵美須神社は御霊神社に合祀されましたが、昭和27年(1952)に伏見町の町人の手によって、旧呉服橋乗詰に伏見町呉服町の発展と墨屋の偉業を記した碑が建てられました。町内の発展を思い、寄付をした人も偉いがその功績を未来永劫に残そうとした地元人も偉い。

⑩高岡福信(たかおかふくのぶ)

大阪市内で一番古い和菓子屋さんで、1624年、大坂城で豊臣秀吉の御膳預かりを務めていた初代が、江戸堀で創業しました。 京都御所への通行手形を持ち、中之島周辺の武家屋敷御用達であったという由緒ある老舗です。なんと当代17代目にあたる。 名物は2週間かけて生地を作った酒饅頭だがわらび餅が逸品である。

⑪筋違橋(すじかいばし)


「摂津名所図会大成』には、撞木橋(しゅもくばし)の形が尋常でない形であるために架け替え時の普請料が嵩み、江戸堀の川幅を狭めて橋が二つに分けられた経緯が記されています。その際、江戸堀の南北に架けられた橋とは別に、高麗橋筋から江戸堀川南岸へ筋違いに斜めに架けられた橋が筋還橋(すじかいばし)と命名されました。

⑫江戸堀川

元和3年(1617)に開削された江戸堀川沿いに町域が位置してことに由来します。堀川の名称起源は、はっきりしませんが、徳川幕府の統治下に入って最初に掘った堀割を記念して名付けたものと思われる。江戸時代には諸藩の蔵屋敷が立ち並ぶ。

⑬阪神高速道路開通記念碑

昭和39年に阪神高速1号環状線の一部(土佐堀から湊町までの区間)が開通しました。この記念碑は阪神高速道路公団創立20周年を記念して、昭和57年建てられた。ある意味、西横堀川を消し去った記念碑ともいえる。

⑭西横堀川跡碑

西横堀川の開削時期は、慶長5年(1600)頃、または元和3~5年(1617~1619)頃とされています。豊臣秀吉が東横堀川以西~現・御堂筋以東までの「船場」を開発し始めたのは慶長3年(1598)。秀吉はその年に亡くなりましたが、大坂冬の陣、夏の陣の戦乱を経て、元和5年(1619)に大坂は幕府直轄地となり、西横堀川以西の西船場エリアが本格的に開発されました。西横堀川は土佐堀川から南に、永瀬七郎右衛門(肥後出身の材木商)によって開削されたので当初は七郎右衛門堀と呼ばれ、川の東側は七郎右衛門町という地名が付いていました。永瀬家は材木商であったことから木屋を名乗り、西横堀川沿いには多数の材木商が軒を並べていました。永瀬七郎右衛門は大坂三郷の-つ、北組の惣年寄を代々務めました。土佐堀通には西横堀川に架かる一番北の橋、西国橋lが架かり、付近に船着き場がありました。西国橋の西詰には、鴻池、三井とともに並び称せられた両替商・加島屋(広岡)久右衛門の店舗があり、加島屋(広岡家)は明治・大正期には広岡財閥として名を馳せ、加島銀行を設立。現在の大同生命につながります。

スポット本町南 ①難波神社

反正(はんぜい)天皇が父帝・仁徳天皇のために創建したと伝えられる由緒ある神社で、このあたり一帯に広がる難波村の鎮守社でした。

②文楽発祥の地

一時期、歌舞伎の人気をしのいでいた人形浄瑠璃だが、竹本・豊竹の両座の没落で急速に衰えていく。
それを蘇生させたのが植村文楽軒で、二代目文楽軒のとき、稲荷神社(難波神社末社)に小屋を構える(文化8年1811)。
途中、天保の改革のあおりで中断もありましたが、明治4年(1871)まで続き文楽軒の芝居と呼ばれ、これが今日の「文楽」の名称のもととなる。
文楽ゆかりの地として「稲荷社文楽座跡」の碑があります。

③南御堂・大谷本願寺名梵鐘

真宗大谷派難疲別院が正式名です。 文禄4年(1595)に秀吉から寺地を寄進されて教如上人が大坂・渡辺の地 (天満橋の西あたり)に大谷本願寺を建立。
その後、慶長3年(1598)に現在地に移転しました。
大谷本願寺銘の賛鐘があります。
「御堂さんの屋根の見えるところ、鐘の聞こえるところで暖簾をはる」のが船場商人の夢でした。

④芭蕉辞世の句碑

元禄7年(1694)に俳聖・松尾芭蕉が大坂にやってきて体調を崩し、南御堂近くの花屋仁右衛門の貸座敷で客死しました。
南御堂には辞世の句 「旅に病んでゆめは枯野をかけまわる」の句碑があります。
終馬の地の碑は御堂前の御堂筋にあります。

⑤坐摩神社

坐摩神社は、神功皇后が三韓征伐から帰還した際に
淀川河口の渡辺の地に坐摩神(いかすりのかみ)を祀ったことがはじまりとされています。
かつては淀川南岸の渡辺の地、現在の中央区石町に鎮座していた。
現在は御旅所となっており、行宮が鎮座する。
延喜式神名帳では、西成郡で唯一の大社であり、摂津国一宮を称する。
鳥居は大小3つの鳥居が横に組み合わさった三鳥居。
豊臣秀吉の大阪築城に当たって替え地を命じられ、寛政年間に船場の現社地へ遷座した。
江戸時代には門前市が立ち、古着屋に人気があって、船場が繊維の町として発展するきっかけになったといわれています。
境内社・繊維神社はその名残です。かつて神社地を渡辺町といいましたが、町名変更後も 「久太郎町4丁目渡辺」という表記で残りました。
全国の渡辺・渡部姓の発祥地で歴代の宮司さんも渡辺姓です。

⑥陶器神社

座間神社の境内にある陶器神社はかつて西横堀川に多かった陶器問屋の守護神とされる。

⑦渡辺党

大坂を活動拠点にした中世の武士団 「渡辺党」その渡辺党の本拠地。

渡辺とは「全国渡っていった」という意味の通り、全国多い苗字ランキング5位、100万人以上いる、その発祥地となる。
平安時代嵯峨天皇の十二男、源融の孫の当たる源綱が渡辺綱を名乗り 渡辺党という特殊な武士団を形成、滝口武者、天皇の護衛役、熊野詣の同行など。
渡辺町があったのだが平成元年の町名変更で消滅の危機があったが全国に散らばっていた渡辺さんが反対運動を行い、かろうじて地番名に残る。
現在座間神社は58代宮司でもちろん渡辺さん。


北の太融寺は源融が淳和天皇の時代8町四方の境内 堂山、神山も関連地、
久太郎とは百済の当て字であり、往古の浪速の町は渡来人で一杯だったようだ
源融(とおる)は嵯峨源氏融流初代。代々この系統は名を1文字で表す。
人皇第五十二代嵯峨天皇の第12皇子源融公
紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの一人と言われている。
嵯峨源氏の源融の孫で、正式な名のりは源綱(みなもと の つな)。通称は渡辺源次


河内源氏(かわちげんじ)は、河内国(現在の大阪府の一部)に根拠地を置いた清和源氏の一派。
一般的に武士で「源氏」という場合、この系統を指す。
源頼信は、河内国古市郡壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とし、香炉峰(こうろほう)の館を建てる。
本拠地が河内国であることから「河内源氏」と呼ばれる。

  ⑧上方落語寄席発祥の地

江戸時代後期、当社境内に上方落語の中興の祖である初代桂文治が
初めて開いた咄の席が上方落語の寄席興業の始まりとされる。
落語の起源としては、江戸時代中期に、
京都の初代露の五郎兵衛や大阪の初代米沢彦八が道端に舞台を設け、
自作の噺を披露して銭を稼いだ「辻咄」(つじばなし)や「軽口」と云われている。
上方は辻話、江戸は武士、商家等に及ばれる接待文化。

⑨小倉屋山本

創業は嘉永元年(1848年)の老舗。
「をぐら昆布」こと松原久七から暖簾分けを許された初代山本利助が「新町橋小倉屋」として独立。
のち「小倉屋山本」と社名を変更し、現在に至る。
道南の真昆布のみを使用。
山崎豊子は3代目山本利助の実妹。
処女作「暖簾」は、生家の小倉屋山本がモデルとなっ た昆布屋を舞台としている。
旧制女専を卒業後、毎日新聞社に入社した。
大阪本社調査部を経て1945年(昭和20年)学芸部に勤務する。

  輸出繊維会館
※この元情報は
「喫茶のすたるじあ」です。

イケフェスガイドツアーで輸出繊維会館を見学
大阪を拠点に数多くの名作を設計した建築家・村野藤吾の技が冴える。といっても、一見すると 派手さのないビルらしい外観なので、多くの方が気にせずに通り過ぎてしまうかもしれない。
しかし、眼を凝らせば、直線的なイタリア産トラバーチンの壁と、キラリと光る角を丸めたアルミサッシの取り合わせに、レトロ感と未来感が不思議に混じり合っている。
西側に張り出した玄関庇や、内部の手すりも繊細な造形。内部の壁画は堂本印象によるもので、その中でも前室の壁画 は“万邦交易”を表現している。
こうしたアーティストとのコラボレーションも村野のお家芸だ。
大阪の繊維輸出業界が生み出した、時代を超越した会館である。
ポイント 建設年:1960年
構造・規模:SRC造8階、地下3階
設 計:村野・森建築事務所(村野藤吾)

まずはエントランス。
朝ドラ「べっぴんさん」でキアリス本社のロケ地としても使われていたので見覚えのある方がいるのでは?

エントランスに飾られているのは、日本画家・堂本印象の原画を使ったガラス製モザイクの壁画。(印象のサインも残されています)

海の中のイメージで構成されていますが、抽象画的なので何の生き物かはわかりません。

近くで見ると、3センチ四方のタイルが一枚一枚貼られているのがわかります。

輸出繊維会館・屋上

屋上の塔屋上に鬼の角のような避雷針がありました。 避雷針にいたるまで村野藤吾デザインです。
美の壺に登場した階段はこちら


堂本印象の壁画は階段下まで続いていました。 優美な曲線を描く手すりは握りやすいように計算されて設置されています。
輸出繊維会館・地下のサロン

会議室へとつながる地下のサロン。 船の絵が描かれた華やかなタペストリー「船と虹」も堂本印象の作品。
こちらも朝ドラ「まんぷく」の日本即席ラーメン工業協会発足式会場のロケ地として使われています。


籐製の衝立や椅子、UFOのような照明も村野段とロビー




中地階ロビーへと続く階段。 繭のような編み模様は繊維業で一時代を築いた輸出繊維会館ならでは(村野藤吾作)
中地階のロビー


外観と玄関庇


外観がシンプルなだけに、ドーム状のキャノピー(玄関庇)が目を引きます。
村野藤吾
大阪を代表する建築家、村野藤吾とは

村野藤吾は1891年(明治24年)佐賀県生まれ。
(誕生日は5月15日。15日生まれだから藤吾と命名されたのでしょうか?)
1918年(大正7年)に早稲田大学卒業。
大阪とは無縁だった村野藤吾でしたが大学卒業後、「関西の名手」と呼ばれる渡邊節の建築事務所に就職したことで、大阪を拠点にするようになりました。
渡邊から「ツーマッチモダンはいかん。売れる図面を書いてくれ」と言われ続けた村野。
当時の最先端であった装飾性のないモダニズム建築ではなく、民衆に受け入れられやすい「商都大阪ならではの建築」をデザインするように叩き込まれたようです。
渡邊節建築事務所で綿業会館の設計をチーフとしてまとめ上げたのち、独立して大阪に自らの建築事務所を設立。
宇部市渡辺翁記念会館(重要文化財)、志摩観光ホテル、世界平和記念聖堂(重要文化財)を手掛けるなど、戦前から戦後まで長く活躍を続けました。
村野藤吾建築のデザインは様々ですが、いずれも見る人や使う人にとって「親しみやすく、飽きのこない魅力に満ちたデザイン」といわれています。

     
地図 スポット情報