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花園 肥後橋 平野 本町 スポット情報(は)

スポット花園 お好み焼きでん

スポット肥後橋 肥後橋MAP
夕日の名所 湊橋



地図 スポット情報 スポット平野

       アヒル菓子店

       大念仏寺
       上へ        カレー店マカリイ

       上へ        パンとお話 Appleの発音


       上へ        全興寺
       上へ        あひる珈琲
       門前茶屋おもろ庵
       末吉家住宅主屋
       焼き菓子多福
       上へ        かたなの博物館



             
地図 スポット情報 スポット本町
スポット本町        小倉屋山本

創業は嘉永元年(1848年)の老舗。
「をぐら昆布」こと松原久七から暖簾分けを許された初代山本利助が「新町橋小倉屋」として独立。
のち「小倉屋山本」と社名を変更し、現在に至る。
道南の真昆布のみを使用。
山崎豊子は3代目山本利助の実妹。
処女作「暖簾」は、生家の小倉屋山本がモデルとなった昆布屋を舞台としている。
旧制女専を卒業後、毎日新聞社に入社した。
大阪本社調査部を経て1945年(昭和20年)学芸部に勤務する。

       難波神社

四方鳥居と楼門付き拝殿 秀吉時代当時、大坂で四方鳥居を許可されたのは、住吉大社とここだけ。
また、楼門付きの拝殿を許されたのは、難波神社だけ。
それほど特別に扱われた神社だったのです。
秀吉は堺まで市街地にしたかった。
そのエリアに難波神社があったために移転。
今の地に社地を持っていなかった。
移転料2,000石  大阪城 34万坪 上本町にあり八町四方23万坪大坂でも巨大な敷地を持っていた。
住吉神社 4町9町 高津宮 6町4方 一町は100m四方

       文楽発祥の地

一時期、歌舞伎の人気をしのいでいた人形浄瑠璃だが、竹本・豊竹の両座の没落で急速に衰えていく。それを蘇生させたのが植村文楽軒で、二代目文楽軒のとき、稲荷神社(難波神社末社)に小屋を構える(文化8年1811)。途中、天保の改革のあおりで中断もありましたが、明治4年(1871)まで続き文楽軒の芝居と呼ばれ、これが今日の「文楽」の名称のもととなる。

       座間神社


かつては淀川南岸の渡辺の地、現在の中央区石町に鎮座していた。
現在は御旅所となっており、行宮が鎮座する。
神功皇后が三韓征伐より帰還された際、この地に坐摩神を祀ったのが当社の創祀という。
延喜式神名帳では、西成郡で唯一の大社であり、摂津国一宮を称する。
鳥居は大小3つの鳥居が横に組み合わさった三鳥居。
豊臣秀吉の大阪築城に当たって替え地を命じられ、寛政年間に船場の現社地へ遷座した。

       陶器神社

座間神社の境内にある陶器神社はかつて西横堀川に多かった陶器問屋の守護神とされる。

       渡辺姓発祥地

ここは大坂を活動拠点にした中世の武士団「渡辺党」の本拠地で、
渡辺とは「全国渡っていった」という意味通り、
全国苗字ランキング5位、100万人以上。
平安時代嵯峨天皇の十二男、
源融の孫の当たる源綱が渡辺綱を名乗り渡辺党なる特殊な武士団を形成。
1989年(平成元年)、南区と東区が統合して中央区になった。
東区渡辺町は中央区久太郎町となることになった。
「名家発祥の地名がなくなってしまうことになったのだが、
そのころ渡辺町に住んでいたのは先代宮司夫妻だけ」。
周囲はオフィス街。夜間人口はたった2人。
「これでは声が届かない、と氏子さんや崇敬者の協力を得まして」、
由緒ある地名を残してほしいと嘆願し、
かろうじて境内地のみ「久太郎町4丁目渡辺」という形で残った。
現在座間神社は58代宮司でもちろん渡辺さん。

       上方落語寄席発祥の地


江戸時代後期、当社境内に上方落語の中興の祖である初代桂文治が
初めて開いた咄の席が上方落語の寄席興業の始まりとされる。
落語の起源としては、江戸時代中期に、
京都の初代露の五郎兵衛や大阪の初代米沢彦八が道端に舞台を設け、
自作の噺を披露して銭を稼いだ「辻咄」(つじばなし)や「軽口」と云われている。
上方は辻話、江戸は武士、商家等に及ばれる接待文化。

       立売堀川跡

立売堀は、寛永3年(1626)に開削されて完成。
立売堀川には、大坂冬の陣・夏の陣で伊達氏がこの付近に堀をつくり陣地を構えていたこと、
その跡を掘り足して川としたことからはじめは伊達堀(だてぼり)と呼んでいたが、
そのうち「いたちぼり」と呼ばれるようになった。
後に材木の立売りが許されるようになったので
漢字のみ「立売堀」と改められた、とのことである。

●いちょう並木「大阪歴史探訪199」立売堀川の名残(ー埋め立てられた堀川)より
昭和31(1956)年まで、 現在の阿波座の南には立売堀川とよばれる堀川がありました。
元和6(1620)年から寛永3 (1626)年に開削された堀川で、
今の中央大通と長堀 通との間を、
東の西横堀川(おおさか歴史探訪 183「西横堀川の名残」)から西の百間堀川まで、
東から西へ流れていました。
現在ではマンションや事務所ビルが所狭しと建ち並んでいますが、
元禄13(1700) 年頃の記録によると、
付近には阿波や日向(ひゅうが)の材木問屋、薪(たきぎ)問屋、櫂(かい)屋、船板屋があり、
また南の新町には遊郭があって、今よりもずっと賑やかな場所でした。
立売堀という地名を聞いたことがある方も多いと思いますが、
その名の由来には諸説あります。
大坂の陣の時に伊達(だて)家の陣所に掘られた堀跡を
さらに掘り足して堀川としたことから伊達(だて)堀と言われるようになり、
その後、字音(じおん)のままに伊達(いたち)堀と呼ばれるようになったという説や、
北側の阿波座の居住域と
南側の新町の遊郭とを分けるとし居断堀(いたちぼり)と呼ばれるようになったなどと言われています。
また一方、近辺で材木の立売、
すなわち一定の場所に店を構えず路傍などで商売することが許されたことから
立売の文字が当てられるようになったとも言われています。
立売堀の西端にあるトコトコダンダンという名前の公園には、
かつてあった立売堀川の堤防コンクリートの一部が残されています。
また、東端近く、現在の四つ橋筋との交差点付近には立売堀川跡の石碑があります。
名残を示すものは僅かですが、ここに堀川のあったことを今に伝えています。
(大阪市教育委員会事務局 文化財保護課)

輸出繊維会館
※この元情報は
「喫茶のすたるじあ」です。

イケフェスガイドツアーで輸出繊維会館を見学
大阪を拠点に数多くの名作を設計した建築家・村野藤吾の技が冴える。といっても、一見すると 派手さのないビルらしい外観なので、多くの方が気にせずに通り過ぎてしまうかもしれない。
しかし、眼を凝らせば、直線的なイタリア産トラバーチンの壁と、キラリと光る角を丸めたアルミサッシの取り合わせに、レトロ感と未来感が不思議に混じり合っている。
西側に張り出した玄関庇や、内部の手すりも繊細な造形。内部の壁画は堂本印象によるもので、その中でも前室の壁画 は“万邦交易”を表現している。
こうしたアーティストとのコラボレーションも村野のお家芸だ。
大阪の繊維輸出業界が生み出した、時代を超越した会館である。
ポイント 建設年:1960年
構造・規模:SRC造8階、地下3階
設 計:村野・森建築事務所(村野藤吾)

まずはエントランス。
朝ドラ「べっぴんさん」でキアリス本社のロケ地としても使われていたので見覚えのある方がいるのでは?

エントランスに飾られているのは、日本画家・堂本印象の原画を使ったガラス製モザイクの壁画。(印象のサインも残されています)

海の中のイメージで構成されていますが、抽象画的なので何の生き物かはわかりません。

近くで見ると、3センチ四方のタイルが一枚一枚貼られているのがわかります。

輸出繊維会館・屋上

屋上の塔屋上に鬼の角のような避雷針がありました。 避雷針にいたるまで村野藤吾デザインです。
美の壺に登場した階段はこちら


堂本印象の壁画は階段下まで続いていました。 優美な曲線を描く手すりは握りやすいように計算されて設置されています。
輸出繊維会館・地下のサロン

会議室へとつながる地下のサロン。 船の絵が描かれた華やかなタペストリー「船と虹」も堂本印象の作品。
こちらも朝ドラ「まんぷく」の日本即席ラーメン工業協会発足式会場のロケ地として使われています。


籐製の衝立や椅子、UFOのような照明も村野段とロビー




中地階ロビーへと続く階段。 繭のような編み模様は繊維業で一時代を築いた輸出繊維会館ならでは(村野藤吾作)
中地階のロビー


外観と玄関庇


外観がシンプルなだけに、ドーム状のキャノピー(玄関庇)が目を引きます。
村野藤吾
大阪を代表する建築家、村野藤吾とは

村野藤吾は1891年(明治24年)佐賀県生まれ。
(誕生日は5月15日。15日生まれだから藤吾と命名されたのでしょうか?)
1918年(大正7年)に早稲田大学卒業。
大阪とは無縁だった村野藤吾でしたが大学卒業後、「関西の名手」と呼ばれる渡邊節の建築事務所に就職したことで、大阪を拠点にするようになりました。
渡邊から「ツーマッチモダンはいかん。売れる図面を書いてくれ」と言われ続けた村野。
当時の最先端であった装飾性のないモダニズム建築ではなく、民衆に受け入れられやすい「商都大阪ならではの建築」をデザインするように叩き込まれたようです。
渡邊節建築事務所で綿業会館の設計をチーフとしてまとめ上げたのち、独立して大阪に自らの建築事務所を設立。
宇部市渡辺翁記念会館(重要文化財)、志摩観光ホテル、世界平和記念聖堂(重要文化財)を手掛けるなど、戦前から戦後まで長く活躍を続けました。
村野藤吾建築のデザインは様々ですが、いずれも見る人や使う人にとって「親しみやすく、飽きのこない魅力に満ちたデザイン」といわれています。

     
地図 スポット情報