地盤沈下に世紀の盛り土工事
戦前の港区は大阪市最大の人口を抱えるまでに発展しましたが、エ場やビルなどの地下水の過度の汲み上げで地盤沈下が生じ、そこへ戦争の空襲で壊減的な打撃を受け、終戦直後には枕崎台風による高潮が襲うという災害が重なりました。そこで、世界でも類のない世紀の盛り土工事が敢行されたのです。 まち朝潮橋 1朝潮橋・世紀の森土工事 2三津神社・夕凪 3唯称寺 4三先天満宮 5三十間堀川 6勝利の女神(池島公園) 7八幡屋公園 MAP
豊臣秀吉が大坂と堺を結び、住吉大社への参詣道ともなった道筋が堺筋で、江戸時代の大坂のメインストリートでした。
紀州藩の参勤交代に使われた紀州街道の一部であり、また住吉街道と呼ばれることもありました。
このあたりは近くの今宮戎神社から恵美須の字をあて、町名にしました。
天満西寺町の面影残すたたずまい
大坂の陣のあと、家康の特命を受けた松平忠明(ただあきら)が、大坂復興事業のひとつとして、天満北縁に天満寺町を形成して北の防御線としました。
スポット情報

まちさんぽ
1法妙寺2南口地蔵尊"
3服部地蔵尊4馬倉地蔵尊
5東口地蔵尊6尻矢口地蔵尊
7如願寺
8楯原神社
9北口地蔵尊
10中高野街道
11喜連古民家・屋敷小路
12西口地蔵尊
13応神天皇の后の塚
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MAP(お店)
江戸時代、大川(淀川)の下流にあった島で新田開発が進み、術環島と名付けられ、 のちに九条島になりました。九条島を横断して安治川が掘られ、大坂市中への水路の玄関口として発展しました。明治になると外国船が出入りして、舶来品を売る商店が並び、最初の大阪市電が走って「西のに斎橋」と呼ばれるほど賑わいました。
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橋を渡ればそわそわお茶屋に芝居小屋
江戸時代、日本一の商いのまち船場から心斎橋筋を歩いて行くと、西側には新町橋の向こうに天下の花街・新町があり、心斎橋の南にはお茶屋街の島之内、さらに道頓堀を渡ればずらりと芝居小屋が並んでいました。
この道筋は装った船場の旦那衆や御寮(ごりょう)さん(商家の女将)で大いに賑わいました。

西大橋から堀江へ、変貌とげたおしゃれな街と若者の先端の街へ
このあたりは江戸時代に大坂で最も遅く掘削された堀江川の一帯で、堀江新地と呼ばれてきました。幕府は新しい土地にさまざまな優遇策を講じて開発を進め、人々が集住して商業や娯楽文化が花開きました。堀江新地からヤンキー発祥の町・アメリカ村までたどります。








