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スポット情報 神武天皇について 神武天皇の建国 日向の国から吉備の国へ 河内国の楯津の戦い 高倉下の太刀と八咫烏 大和の平定 鳥見(とみ)の祭り 皇后(きさき)を定められる 神武天皇と国民 神武天皇
『神武天皇』について  保田與重郎(やすだよじゅうろう)氏がこの作品を書きあげて間もなく、
昭和五十六年十月四日、七十一歳で亡くなられたことは、 惜しんでも悔やんでもなお余りあることであります。

保田氏は大和朝廷発祥(はっしょう)の地である奈良県桜井市の生まれで、
幼少の頃から数ある古代の遺跡や遺物に親しみ、
また古老の話を聞いて、日本の遠い古代を今の現(うつつ)に感じながら育ちました。

 かくて畝傍(うねび)中学から大阪高校を経て東大文学部の美学科を卒業しましたが、
その後はいよいよ深く古代史と古典とを究め、
評論家として華々(はなばな)しく文壇に登場しました。

当時――戦前から戦中にかけての保田氏の重な作品には、 「日本の橋」、 「戴冠(たいかん)詩人の御一人者』、『芭蕉」、
「後鳥羽院』、『和泉式部私抄』、『歴史と風景』、『萬葉集の精神』などがありますが、
当時の文学好きの若ものはみんなこれらの著書に感激して読みふけったものであります。
まさに当時の保田氏こそ文壇の花形評論家であり、
日本の古代史と古典とを論じては第一人者でありました。

戦後の保田氏は京都に定住し、
奈良や京都附近の荒廃(こうはい)した遺跡を復興したりして、 文学活動は表面上は以前のように盛んではなくなりましたが、
高邁(こうまい)な思想を述べた著書はかえって多く、 ことに「日本の美術史』と『日本の文学史」とは独自の深い観点から書かれた注目すべき大著であります。

『神武天皇』はこのような保田氏の絶筆であり、
『古事記』や『日本書紀』や『萬葉集』や『古語拾遺(こごしゅうい)』や
『出雲の国造(くにのみやつこ)の神賀詞(かむよごと)』など、
日本の建国に関する古典はことごとく参照して書かれています。
短篇ながら保田氏でなくては書けない、最も感動すべき建国史であります。

本文の中のカタカナのふり仮名は、「古事記」「日本書紀」の読み方 です。
ひら仮名のふり仮名は、現在の読み方です。 編集部註
(中谷孝雄(なかたにたかお) ) 神武天皇の建国 神武天皇(じん むてんのう)の建国 昭和五十六年は、今上天皇陛下(きんじょうてんのうへいか) 践祚(せんそ)された年を一年と数えて五十六年目ということです。 大正十五年十二月二十五日に、大正天皇(たいしょうてんのう)が崩御(ほうぎょ)され、その日、皇太子裕仁親王(ひろひとしんのう)が、天皇の御位(みくらい)におつきになりました。これを践祚されると言い、即位大礼(そくいたいれい)は二年おいた昭和三年十一月十日に、京都で行われたのです。昭和という年号は、践祚の日から始まるのです。年号は天皇陛下 がお定めになり、天皇陛下の御(おん)一代は、そのまま変わらないことに定まっています。 今上天皇陛下は明治三十四年のお生まれですから、数え年では八十一歳になられます。 昭和 五十六年四月二十九日に満八十歳におなりになられたわけです。ご在位の方は、数え年で数えて、五十六年となるのです。 この昭和五十六年は、わが国の紀元では二千六百四十一年です。わが国の紀元というのは、 神武天皇が大和(やまと)の橿原宮(かしはらみや)で即位された年から数えた年数であります。神武天皇はわが日本国の第一代の天皇です。 今の天皇陛下は、神武天皇から数えて百二十四代目にあたられます。 国の始めの神武天皇から天皇の御(おん)血筋が一系につづいているのが、わが日本の国がらであります。 神武天皇が橿原宮で即位されたのは紀元元年二月十一日で、この日を建国記念の日として、 国民の祝日とされているのです。 建国ということが、いかに困難で、また辛苦(しんく)の多い大業(たいぎょう)であるかということは、ここ三十年間の世界の状態を見ればわかります。 この三十年間に西洋諸国の植民地の状態から、独立した 国と民族はたくさんあります。そのたくさんの国ぐにが、今も建国の経営に苦しんでいるのです。 神武天皇の建てられたわが日本国が、天皇のご子孫の一系の天子を仰いで、二千六百四十一 年の歴史をつづけているということは、世界の歴史の不思議と申すほかないものでありますが、 実にこれが日本の信実(しんじつ)の姿です。 自然の恩恵(おんけい)とともに、そのきびしい試錬をうけ、一つの民族として一億を超える人口が共通 した一つの国語で語り合い、数千年間の先祖の無数の文物(ぶんぶつ)を、風景明媚(めいび)の国土のいたるところ に保存してきたことは、まことに比類のない世界史の驚異(きょうい)であります。そしてこの淵源(えんげん)は、実に神武天皇の建国にあります。 神武天皇を第一代とするわが皇室の歴史では、いつの時代にも、皇室が、文化、学術、芸術の中心でありました。 これは文書(もんじょ)の残っている聖徳太子(しょうとくたいし)の時代から、古事記、万葉集の奈良時代をへて、平安時代へとつづく事実であります。源頼朝が幕府をひらいた以後も、その時代時代の行政の権力を握った者は、最後の目的として京都文化を学ぼう、まねようとしました。室町時代とか戦国時代という、国内が乱れたといわれる実力者の時代にも、地方で勢いを得た豪族たちは、都の文明を慕い、それをまねようとしました。今でも全国に、小京都と称する美しい町があちこちにあります。これらは都の文明をまねたのであります。 武士より自由だった市民たちも、実力をたくわえると、生活の中へ風雅(ふうが)というものを取り入れようとしました。風雅というのは、「みやび」と言い、天皇陛下の都の文明をまねることです。 民間で祭りを盛大に行った時も、祭りには、都の芸能や美術工芸を取り入れることが多かった のです。京都文化というのは、皇室を源とする文明だったのです。 外国では、帝王が天や神を祭り、人民は帝王のなされることをまねると罪とされる例が多い のですが、わが国では、天皇の遊ばされるいちばん大事な祭祀を、すべての国民がまねてする ことが当然とされていました。また外国には御用作家というものがあって、 帝王の命をうけて、 美術工芸や音楽などの芸能を作り、人民はまねすることができません。わが国では和歌や俳諧 を大切にし、その道の名人となると、最も高貴な人びとと同座で、交際することができました。 芸道の名人は、天皇や上皇(じょうこう)の御所に出入りすることもできたのです。 その道が尊(とうと)ばれ人の身分 や出生についての差別はありません。 昔の日本には、自分ら日本人の先祖は高皇産霊神(タカミムスビノカミ)で、みな神の子として、区別がないのだ、 という諺がありました。人に差別はないということを、生命の始まりというところから考えて、 これを神話に表現していたのです。日本人はみな、一つの神の子だという時の、神というのは、 先祖のことで、生命のおやというものです。 神武天皇が、大和の橿原宮で即位せられて、第一代の天皇となられる以前には、いろいろのことがありました。天皇は初め九州の日向(ヒムカ)の国におられました。そこから大和の国へこられたのです。このことについての、いろいろの事実は、「古事記」と「日本書紀」にしるされています。 「古事記」の方はわれわれの先祖の人びとが伝えてきた物語のままに記述し、「日本書紀」の方は、この伝承にもとづき、思想的に著述(ちょじゅつ)されています。 「日本書紀」は、天武天皇の皇子の舎人親王(とねり しんのう)を総裁(そうさい)として作られた日本の歴史書であります。 平安時代の紫式部が「源氏物語」を書いた時、人びとは、式部は日本紀をよく読み取られたと言って感心し ほめました。 「日本書紀」を昔は「日本紀」とも言ったのです。 「古事記」は、日本人の先祖からうけついできた古語(ふるごと)を、後の世の 考えでかざることなく、そのままにしるされたものです。 「日本書紀」の方は、国の公的な歴史書として、舎人親王が心魂(しんこん)をこめて著(あらわ)されました。外国の人に読ませるという配慮(はいりょ)もされています。 大昔のわが国には文字も暦(こよみ)もなかったと言われています。 「古事記」に は年号がされていませんが、 「日本書紀」には年号が記述され ていて、紀元二千六百四十一年というのは、「日本書紀」の神武天皇のご即位された年を元年として始まるのです。 この二つの本には、古(いにしえ)の時代のことは共通したことがしるされています。「日本書紀」を作られた舎人親王は、神武天皇の建国のご聖業(せいぎょう)については、心をこめて、語句の一つ一つにまで、 深い思想をふくめた言葉で、この文章をしるされました。 昔からのわが国の学者は、この文章 にふくまれている、種じゅの意味をくみ取る勉強をしてきました。「日本書紀」の文章は文学的ですが、この文学を学ぶことによって、日本人の道徳や哲学(てつがく)を知りました。 昭和十五年は紀元二千六百年に当たりましたので、翌十六年にその奉祝祭(ほうしゅくさい)が行われ、いろいろの記念の行事がありました。 神武天皇の畝傍御陵(うねび ごりょう)と橿原(かしはら)神宮の一帯には、全国から青年団を 中心にして、老若男女(ろうにやくなんにょ)の人びとが集まってきて、植物の苗木(なえぎ)を植えました。四十年たった今日ではさかんに繁って、見事な森の風景となっています。またこの時、初めて奈良の正倉院の御物を東京へ運んで、今の国立博物館で陳列(ちんれつ)され、全国から参観にきました。 もと ほうぎょ 正倉院の御物というのは、聖武(しょうむ)天皇が崩御された後に、天皇のご遺品やご使用の品じなを中心にお手許品のすべてを東大寺に寄納(きのう)されたもので、以来千二百年以上の間、この正倉院に保存されてきたもので、当時の世界の工芸の粋(すい)というべきものも多くあります。 この伝世(でんせい)の宝物は、埋葬された土中から発掘(はっくつ)されて出てきた遺物(いぶつ)でなく、長い年月にわたって、整然と保存されてきた点が尊(とうと)かれるのは虫干(むしぼ)しの時だけで、天皇陛下の御命令で開 かれまた閉ざされてきたのです。 これを勅封(ちょくふう) と言います。 正倉院の建物は木造ですが、奈良時代のままに伝わっています。紀元二千六百年奉祝の記念として、奈良県では、神宮の近くにグラウンドを作りました。 この工事は、橿原宮の土地の伝承で、大事な場所と思われるところを避けてなされたのですが、この土木工事中に、たくさんの遺物が土中から出ました。それは一つの博物館をつくって納めねばならぬほどの数でした。 当時これらの出土品を調べたところ、今から四千年以前のものとも推定される縄文時代の遺物から、新しいところでは鎌倉時代のものも、年代順に土の中にあったのです。橿原宮の始まり 歴史の長さが、この地下から出た遺物によってわかりました。 日向の国から吉備の国へ 神武天皇のおん名は、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイ ハレピコノミコト)と申します。天皇は始め日向の国高千穂宮(タカチホノミヤ)におられました。この日向の国は、天皇のご先祖の神が、高天原(タカマノハラ)から降(くだ)ってこられた所です。 天皇には四人の兄弟がおられました。一番上が五瀬命(イツセノミコト)で、次は稲氷命(イナヒノミコト)、その次は御毛沼命(ミケヌノミコト)、そして四番目が神武天皇(神倭伊波礼毘古命カムヤマトイ ハレピコノミコト)です。 しかし稲氷命は御母上のおられる海の国へ行かれ、御毛沼命は波のうえを歩いて常世の国という遠い遠いところへ渡ってしまわれました。 神武天皇は五瀬命(イツセノミコト)と高千穂宮でご相談され、日向は西国に片寄っていて、日本中を治めるのに不便だから、これはもっと東の方へ移ったほうがよいであろうとお考えになりました。 それで人びとをひきつれて、日向から筑紫(ツクシ)をさして船出されました。 途中で豊国(トヨクニ)(大分県)の宇 沙(ウサ)にお着きになりました。その土地の宇佐都比古(ウサツヒコ)と宇佐都比売(ウサツヒメ)の二人は、御殿を作って天皇の ご一行をお迎えし、たいへんなご馳走をしました。 ここから筑紫の国(福岡県)へ入られ、岡田宮(オカダノミヤ)に一年の間ご滞在になりました。さらに阿岐(アギ)の国(広島県)へおのぼりになり、ここの多祁理宮(タケリノミヤ)には、七年の間おとどまりになり、また吉備国(キビノクニ)(岡山県)の高島宮(タカシマノミヤ)へお移りになり、高島宮には八年もご滞在なされました。 このように、あちこちで永くご滞在されるのは、その土地を拓(ひら)いて、自分らの糧食(りょうしょく)を作り、 また土地の人びとに、農業の技術を教えられたのです。これには深いいわれがありました。 天皇のご先祖の神さまが、高天原(タカマノハラ)からこの地上の国へ降ってこられる時、おん祖母の天照大神(アマテラスオオミカミ)から、お米の種子をいただかれ、地上の国へ降りられたら、この種子を地上に植え高天原で神が みがなさっている手振りにならって、米作りを生業としなさい。そうすると地上の国も、高天原と同じ神の国になるのですと教えられました。 高天原の神の国では、男の神がみは水田で米作りをして働かれ、女の神がみは機(はた)を織っておられました。地上へ降った天(あめ)の神の御子は、この高天原の米作りの高い技術を、国中をまわって普及させることが、天照大神の教えであります。 これが日本の国の始めで、また建国の大本となり、天皇陛下の最も大事なお仕事です。 きか 米作りを生活のもととする時、わが子孫も、この国も、天地(アメツチ)とともに永久に栄えるのです。 これが神の教えでした。この米作りを正しく行うことを、「神ならう」とか、神の手ぶりにならうと言うのです。 この神の教えの実行は、その後の奈良時代から平安時代へとつづいて、東北開発の目標でした。神武天皇のご東征(とうせい)と言うのは、この高天原の水田で米を作られた技術を、各地の土地の人 びとに教えながら進まれたというのが、この事実の内容であります。 河内国の楯津の戦い 天皇は吉備国(キビノクニ)の高島宮を出発遊ばして、海路を速吸門(ハヤスヒノ)へこられました。門(と)は海水の流れの出入りする瀬戸(せと)のことです。この速吸門へさしかかられますと、亀(かめ)の背なかに乗って、魚を釣りながらこちらへ向かってくる者がおりました。天皇のお船を見つけた様子で、しきりに鳥が羽を振るように、袖を振って合図(あいず)をします。天皇はその人をおよびよせになって、 「あなたは何者か」 とおたずねになりますと、 「私は国神(クニッカミ)です」 とお答えしました。 高天原(タカマノハラ)の神を天神(アマツカミ)と言い、それに対して、この地上の神のことを国神と言うのです。 「あなたはこのあたりの海路をよく知っているか」 と天皇が問われますと、 「よく存じております」 と申します。 「わしのともになってついてくるか」 とおっしゃいますと、 「ご奉公(ほうこう)申し上げます」 とお答えしましたので、さおをさしわたしてご座(ざせん) へひき入れ、槁根津日子(サオネツヒコ)という名をお与え になりました。 この槁根津日子は、後の倭国造(ヤマトノクニノミヤツコ)らの先祖です。 国造というのは、上代の制度で 地方の長官のような役の人です。 天皇のご船団は、東へ東へと進み、やがて摂津国(せっつのくに)(大阪府)の浪速の海を乗り切って、河内(カハチノ)国(大阪府)の青雲(アツクモ)の白肩津(シラカタノツ)という港へお着きになりました。 するとそこには、大和国(ヤマトノクニ)(奈良県) の登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネピコ)(鳥見長髄彦ナガスネヒコ)という者が、軍勢 をひきつれて待ちかまえておりました。 この長髄彦は、そのころ大和国に勢力を振るっていた 者で、自分の妹を、早くから大和国へお降(くだ)りになっていた天神饒速日命(アマツカミニギハヤビノミコト)の妻としてたてまつり、その妹は宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)を産んで、いよいよ威勢(いせい)をさかんにしていました。 そして天皇が大和国へ入られるのを防がねばならぬと考えたのです。 長髄彦は、天皇のお船に向かって急にどっと矢を射向(いむ)けてきました。お船では、楯(たて)を取り出して、下りたって戦われました。この地が楯津(タテツ)と言われたいわれです。「古事記」が作られた時代には日下(クサカ)の蓼津(タデツ)と言っております。 楯津の戦(いくさ)は、両方から弓矢を射かけて、 非常な乱戦(らんせん)となりました。 そして長髄彦の射た鋭い矢が、五瀬命(イツセノミコト)の御手(みて)にあたりました。命はその傷の痛みをこらえながら、 「われは、日の神の子孫でありながら、日に向かって攻めかかったのは、たいへんなまちがいだった。それでいやしい男の矢をうけて、痛手(いたで)を負うのも当然だ。今から廻り道をとって、お日さまをうしろにして戦をし、必ず敵をうち倒そう」と、おおせになり、軍勢を集めてお船におかえりになり、いそいで海上へこぎ出され、海路を 南にとって、進まれました。矢傷のお血が流れ出ましたので、海水で洗われました。血沼(チヌ)の海というのは、五瀬命(イツセノミコト)のこの故事から出た名であります。血沼の海からさらに南に進まれて、紀国(キノクニ)(和歌山県)の男水門(ヲノミナト)につかれるころには、お傷の痛みは激しくなりました。 五瀬命は、「あのいやしい男に負わされた傷のために、私はここで死ぬのか」 と、雄健(オタケビ)されて、おなくなりになりました。命が声を張りあげて、雄健されたところというので、この地を男水門と申すのです。命の陵はやがて紀国の竃山(カマヤマ)にきずかれました。 目ざす大和国の山一つまえまで進みながら、その山一つを越えることができなかったばかりか、全軍にとって最も大事な、中心の五瀬命を失ったのです。天皇のその時のお気持ちは、想像を超えた悲壮なものだったでしょう。しかしこの大きい落胆(らくたん)から立ち上がることは、天皇の 聖業をしあげるために必要です。 全軍の絶望からの動揺(どうよう)をひきしずめ、もとにまさる勇気をふるい立てねば大業は成功しません。もとの気持ちにかえることさえ容易でないのに、それの何倍かの勇気をふり立てねばならぬのです。動揺する人の心をおちつかせ、それを一つにまとめ て、始めの何倍かの力にもりあげねば、五瀬命をお失いしたという大きい打撃を、つぐなうことができません。これをなしうるのが天皇でした。天皇がなさればなりません。すべての運命は、今や天皇の一挙一動にかかっています。これをきりっと一つにひきまとめられた天皇の偉大さを思わねばなりません。 しかし、その後の天皇の建国の大業のあとを追うと、楯津(タテツ)の悲劇は、実にまだ序の口でありました。天皇のゆくてには、その山道や海路のいたるところに、まことに千難万苦がまちかま えていたのです。 道のない山中に、道を作りながら進むというのが、天皇が大和へ入られる時の状態です。私らは、国を建てるということが、如何(いか)に困難な大事業だったかという点をよく 味わい、この偉大な天皇のご盛業に感謝し、天皇の大御心(おおみこころ)の深大無辺(しんだいむへん)さをよくよく悟らねばならぬのです。 「古事記」にしるされた神武天皇の御(おん)一代の記事には、理屈っぽい説明は何も書かれていません。天皇の大和国平定までの苦難の長い旅路の数かずの事件を叙述(じょじゅつ)し、ついにすべてが当然のように治まり、そのあと美しい皇后(こうごう)をおたてになることをしるしているのです。しかし大和国平定までの長い日びは、すべて難しい、危ない、日のつづきでありました。 こういう時に、偉大な人はどういう心の持ち方をされていたかは、考えてみたいことであります。 高倉下の太刀と八咫烏 天皇はさらに海路をすすめられ、紀国(キノクニ) (和歌山県)の熊野(クマノ)の村にお着きになりました。 その時、ふいに大きい熊があらわれて、あっというまに、どこかへ消えてしまいました。ところがその時、天皇は、にわかに、ぐらぐらとお目がくらみ、軍勢も、ぐったりと疲れてしまい、体の力を失って、一人残らず、その場に気絶してしまったのです。熊野(クマノ)の高倉下(タカラジ)が、一振りの太 をもって、天皇の伏し倒れておられるところへ参り、その太刀(タチ)をさし出しました。すると天皇はたちまち正気(しょうき)にもどられました。 「ああどうしたことだろう、ずい分長く寝ていたことだわい」と天皇はおおせになって、この太刀をお受け取りになりました。 太刀をお受け取りになっただけなのに、熊野の山にいた悪い神たちは、つぎつぎにばたばたと切り倒されてしまいました。 すると気を失っていたおともの軍勢も、みな眼をさまして立ち上がりました。 天皇はこの太刀の奇蹟(きせき)に驚かれ、高倉下(タカクラジ)に、この太刀をどうして手に入れたか、そのいわれ を聞かせてほしいとおっしゃいました。 そこで高倉下がお答えした次第は、 「実は昨夜不思議な夢を見たのでございます。その夢の中で、天照大神(アマテラスオホミカ)と高木大神(タカギノオホカミ)(高皇産霊(タカミムスビノ)のお二方が、建御雷神(タケミイカヅチノカミ)をおよびになって、葦原中国(アシハラノナカツクニ)はいまたいへん乱れて、騒いでいる。 そのために、天つ神のご子孫は、これをおさめようとしてたいへん悩み患(わずら)っておられる。 この葦原中国は、もともとそなたが平定された土地だから、もう一度、天上から降(くだ)ってしずめてくるように、とおっしゃったのです。 この時、建御雷神はそれに答えて申されたのです。そのことでございましたら、私がわざわざ降りるまでもありません。ここにその節、私が国を平げた太刀がございます。これを地上へ降ろしましょう。それには高倉下の倉の棟をつき貫いて、落としましょう。それから私の方に向かって、明日の朝、目がさめたら、ただちにあなたは倉の棟をつきぬけている太刀をとって、これを天神の御子に奉れ、と教えてくださったのです。この 教えのままに、今朝(けさ)目がさめると同時に、倉へ参ってみますと、ちゃんと太刀がございました。 それでこの太刀を献上するためにここに参ってございます」 ことの始終をお話ししました。 天皇とそのおともの軍勢はすでに元気を回復していましたが、この話をきいて、いよいよ勇気のわくのを感じ勇み立つのです。するとその時高木大神(タカギノオホカミ)(高皇産霊神)のお声が、天皇に聞こえて参りました。これは天上から天皇にお教えになったのでありましょう。神の御声(みこえ)は、「天神の御子よ、ここから奥へ進まれてはなりません。荒ぶる神がたくさんおります。私が、いま天上から八咫烏(ヤタガラス)をさしつかわしましょう。 この八咫烏の飛んでゆく後を追ってお進みなさい」 と、お教えになりました。おおせのごとく八咫烏が降りてきました。 大和の平定 天皇は八咫烏の飛んでゆく後を追って進まれました。すると吉野河(エシヌガハ)の河口へお着きになりました。そこには、細い竹を編んでつくった筌(ウヘ)という漁具を水中に沈めて、川魚をとっている人がいました。 天皇が、 「そなたはだれか」 とお問いかけになりました。 「私はこの地の国神(クニッカミ)、名は質持(ニヘモツ)の子です」 とこの子はお答えしました。 それからなおも進んでゆかれますと、今度は、尻尾(しっぽ)のある人が井戸から出てきました。その井戸はぴかぴかと光りました。 「そなたはだれか」 とお問いになりますと、 「私は国神、名は井冰鹿(イヒカ)と申します」 とお答えしました。この人たちは天皇をお迎えに出てきて、おともについてきました。 こうしてだんだん山中へ進まれると、また尾のある人が出てきました。この人は大きい厳(いわ)の間から、 その厳を押し分けて出てきたのでした。 「そなたはだれか」 とお聞きになりますと、 「私はこの地の国神、名は石押分(イハオシワク)の子です。ただいま、天神のご子孫がおいでになると承りましたので、おともに加えてもらおうと思って参りました」 と申します。天皇はここからさらに険しい山、深い谷を踏みわけて、大和の宇陀(ウダ)へ出られました。 宇陀には兄宇迦斯(エウカシ)、弟宇迦斯(オトウカシ)という兄弟の暴(あば)れ者がいました。 二人はなかなかに勢いがあり ましたので、天皇はまず八咫烏を二人のところへお使いにお出しになりました。 「今、天神のご子孫がこの地へおこしになって いる。おまえたちは天神の御子にお従い申すか、どうか」 とお聞かせになりました。 兄宇迦斯は、いきな り鳴りかぶら矢を射かけて、お使いを追いかえしました。 兄宇迦斯は、天皇の軍勢を、迎え討とうと思い、兵を集めにかかったのですが、人数がそろいません。 それで天皇をだまし討ちにしようとたくらみ、うわべは服従するようによそおって、天皇をお招きするために、大殿(オホトノ)を作りました。しかし実はこの大殿の中は釣り天井(つりてんじょう)で、押し伏せ申そうとまちかまえていました。 弟宇迦斯は、天皇の御許(みもと)にまいり、天皇を伏し拝(おが)んで、この兄の計画をあかしました。 「私の兄の兄宇迦斯は、天神の御子のお使いを、矢を放って追いかえし、御子をまちかまえて 討ち取ろうと考えて、 兵を集めにかかりましたが、思うように集まりません。 それで大殿を作り、中に釣り天井をしかけ、天皇をおいつわりして招き、お討ち取り申そうとの、たくらみをしています。それで急いでこのことをお知らせしようと思い参りました」 と申しました。この話をきいて、道臣命(ミチオミノミコト)と大久米命(オホクメノミコト)の二人が、兄宇迦斯をよびよせ、 「おまえの作った大殿の中へ、おのれまず入って、お仕えすると申しているそのさまを、自身で示してみせよ」 と、大声でどなりつけ、太刀の柄を握り、矢をつがえて、大殿の中へ追い込みました。 兄宇迦斯はそのために、自分で作った押機に打たれて死にました。 弟宇迦斯はいろいろのご馳走(ちそう)を献上(けんじょう)しました。天皇はこれを軍勢一同におくだしになり、宴をひらかれました。その時天皇がお歌いになった長歌があります。 「宇陀の高城(タカキ)に、鴫(シギ)をとるつもりのわなをかけて待っていたが、鴫はかからないで、かわりに、くじらがひっかかった、ええ、おかしいな」 こんな意味のお歌です。 さらに進んで宇陀から忍坂(オサカ)へ出られました。 そこには土雲八十建(ツチグモ ヤソタケル)と言って、お尻に尾のある、土の穴に住んでいるあらくれ者が大勢いました。 天皇のおこしを待ちもうけて、 大室(オホムロ)に集まっ ていました。天皇は、ご馳走を用意したと言って八十建をお招きになりました。 しかし前もって、たくさんの給仕人を用意し、相手の一人一人の傍につくものを定めて、その一人一人に、 太刀を隠しもたせ、合図の歌があれば一度に斬ってかかれと言いふくめておかれました。天皇が合図の歌を歌いになりますと、一度に太刀をぬいて立ち上がり、八十建を一人残らず斬り殺してしまいました。 いよいよ登美(トミ)の長髄彦(ナガスネヒコ)を征伐されることになりました。長髄彦は御兄(オンアニ)五瀬命(イツセノミコト)の憎い敵(カタキ)であります。 さきにも言いましたように長髄彦の許には、天神の、同じ血すじの饒速日命(ニギハヤビノミコト)がおられます。天皇が登美へこられた時、饒速日命は天皇のおん許へ参られました。 「私は天皇のご先祖の神が天上からこの地上へ降りてこられたときいた時に、私もいっしょに降(くだ)ることになっていましたので、おあとを追って天降(あまくだ)ってきたのです」 と申し上げられ、その時天上から持ってこられた、天神のご血統を証明する印(しるし)の宝物を天皇に奉(たてまつ)られました。 天皇が長髄彦を討ち取られるまでの苦戦のさまは、「古事記」にはしるされていませんが、「日本書紀」には、見事な文章で種じゅのことがしるされています。有名な金鵄(きんし)の出現も、「日本書紀」にしるされている話です。 長髄彦の軍勢との間の戦は、天皇の軍隊は、非常な激戦でした。どうしても勝つことができません。 この時、一天にわかにかきくもり、激しい雨が降ってきました。季節は十二月でしたので雨は氷雨です。 その時、金色の鵄(とび)が飛んできて、天皇のお弓の弾(はず)に止まりました。 その鵄は照り輝き、いなびかりのようにあたりを照らしました。 長髄彦の軍勢は、目がくらみ、まともに眼を開けて見ることができないで、うろうろして、もう戦 うことはできません。 天皇の軍隊は勝ちました。この金鵄の出現したところを、鵄の邑(とびのむら)という ことになりました。 「日本書紀」がしるされた天武天皇の時代、鳥見(トミ)と言っているのは、この鵄の邑をなまったのです。 この天武天皇の時代から千三百年ほど時代をへた今日まで、鳥見の地名は残っていますが、村の名は外山(とび)と呼び、今は桜井市のうちです。その外山の鳥見山の山中の小川のほとりに、大きい厳があって村人は昔から「金鵄の社(しゃ)」と呼んでいました。国の事ある時には、各地から詣でる人も多かったということです。 「古事記」には、天皇が長髄彦を討ち滅ぼされた戦の時に歌われた長歌がしるされています。   みつみつし 久米(クメ)の子等(コラ)が   粟生(アハフ)には臭韮一茎(カミラ ヒト モト)   其根(ソネ)が茎(モト) 其根芽繋(ソネメツ)ぎて   撃ちてしやまむ つづけて歌われた歌   みつみつし 久米の子等が   垣下(カキモト)に植ゑし薑(ハジカミ)   口響(クチヒビ)く 吾は忘れじ   撃ちてしやまむ さらに歌われた歌   神風(カムカゼ)の伊勢の海の   大石(オヒシ)にはひもとろふ   細螺(シタダミ)の いはひもとほり   撃ちてしやまむ この三つのお歌は、太古の言葉ですから、難しいのですが、初めのお歌は、   久米の子らの粟畑に根をはっているいやな韮(にら)は、根こそぎにひきぬいて、根絶やしにせよ。 というほどの意味です。 久米の子というのは、天皇の親しい兵士たちの仲間です。 二つ目のお歌は、   長髄彦の抵抗にあって生駒山を越すことができず、あまつさえ五瀬命を失ったときの悲痛の思い出は、忘れることができない、その憎い敵を忘れることはない。必ず討ち滅ぼすのだ。 というほどの意味です。 三つ目のお歌は、   伊勢の海の大きい石のかげを、うろうろとはいまわって、身を出したりかくれたりしている細蝶(きさご)のような卑しい敵を、全滅(ぜんめつ)せよ。というような意味です。 いずれも過ぎし日の苦難を思われ、特に五瀬命のご無念を思われるお歌です。お歌の比喩(たとえ)がおもしろく的確で、すぐれたお歌であります。 この他に、兄師木(エシキ)・弟師木(オトキ)という兄弟の悪人を討たれた時、戦いはたいへんな苦戦で、天皇の軍隊は疲れて立つこともできない状態になりました。その時のお歌があります。   楯並(タテナメ)めて伊那佐(イナサ)の山の   樹の間(コノマ)よも い行きまもらひ   戦へば 吾はや飢(エ)ぬ   島つ鳥 鵜養(ウカヒ)が徒(トモ)    いま助(ス)けに来ね これは吉野河(エシオカワ)すじで鵜養(うかい)を生業としていた部族に、援軍を求められたお歌のように思われます。 なお、「日本書紀」にはいろいろの戦いのご苦心のことがしるされています。 しかし国内の天皇に抵抗しようとした者はついに全部が平定されました。 ここで橿原宮で御位(みくらい)につかれること になりました。 鳥見(とみ)の祭り この橿原宮でご即位の大典をあげられるに当たって前後に行われたいろいろの準備は、「古語拾遺(こごしゅうい)」という古典にくわしくしるされています。 奈良の都を京都へ移された第五十代の桓武天皇の次の平城(へいぜい)天皇は、「日本書紀」 や 「古事記」に国の歴史はしるされているが、なお諸もろの氏族の伝えてきた古事で、これらの本に出ていない伝承は、文字にうつして後世に伝えねばならぬ、とお考えになりました。 これは、都うつりといった大事件があったりすると、世の中が 騒ぞうしくなり、いろいろの変革が起こったりして、古い伝承はかえりみられなくなって、忘れられるという心配があるからです。 この平城天皇のみことのりに従(したが)って、斎部(いみべ)氏という古い氏族の長だった斎部広成(いみべのひろなり)が著(あらわ)したのがこの「古語拾遺」で、他の家の本はどうなったかわか 神りませんが、この本だけ今日まで残りました。 その内容を見ると、「日本書紀」や「古事記」にのっていないことがたくさん書かれてあって、まことに日本民族のためにありがたいこの本が、 よく残ってくれたという感謝の気持ちがおこります。 この本の即位の時の記述によりますと、まず大殿が建てられ、諸国を開拓して産業をおこされた様子がしるされています。 これは大嘗祭(おおにのまつ)りを行うための開発だったのです。 天皇陛下のご先祖が、高天原から地上に降りてこられる時、天照大神(アマテラスオホミカミ)は高天原の水田の稲の 種子を与えられ、この種子を地上の国にそだてて、高天原で神がみのしておられるとおりの作り方をすれば、神の国が出現すると教えられた、これがわが国の建国の大本だということはさきにもしるしたとおりです。 この時大神は、鏡を与えられて、私を見たいと思った時は、この 鏡を見るがよいと教えられました。  天上から天降(あもり)りしてこられる天皇陛下のご先祖の神は、お産まれになったばかりの赤坊(あかんぼう)の神 でした。それで、大きい椅子(いす)のようなつくりの御座(みくら)に、柔らかいおふとんを敷いて、それにおのせし、両手に剣と玉をおもたせして、天上から地上へ、わき立つ雲の間をまっしぐらに降りてこられたのです。この鏡と剣と王が天皇陛下の皇位のしるしの伝世の宝物です。これがいわゆる三種の神器(じんぎ)です。 古来から帝位のしるしとされたものは、各国にたくさんありましたが、わが国で、鏡と剣と玉をそれにしていたことは、日本人の我われにとっては格別と思いませんが、外国人が他国の例とくらべた時、この三種の神器を伝えた日本人の叡智(えいち)に驚嘆(きょうたん)すると言います。 この三種の宝物は単に珍貴(ちんき)な財物というものでなく、その象徴する意味の深さに驚いたようです。その三種には深い思想と哲学がことよせられているからであります。 「日本書紀」には神武天皇のご即位の時のお言葉がしるされていますが、その中に「六合(クヌチ)を兼(カ)ねて都を開き、八紘(アメノシタ)を掩(オホ)ひて宇(イヘ)と為(ナ)さむ」とのお言葉があり、これは世界を一つにした都をひらき、天の下を一つの家としようという理想を著(あらわ)されたものと解釈(かいしゃく)する人が多くいます。 このことは力で世界を統一するという思想とのけじめがまぎらわしいのですが、わが国の建国の理想には力による支配の思想がないということは、 高天原で神がみがなされていたと同じように、この土地に米を作って、この地上の国を高天原と同じ神の国とするという神の教えがさきにあるからです。この神の教えが、わが国のすべての大本となっているのです。  この天上の神のお教えを事実として現すのが大嘗祭(おおにのまつり)です。大嘗祭はご即位式の後に行われるもので、大嘗会(だいじょうえ)とも言い、古来から即位式について大嘗祭が行われることによって、皇位継承が完了し、天皇の御位(みくらい)が確立するとされていました。天皇が践祚(せんそ)されてから、大嘗祭が行われるまでには、新しい御代(みよ)となってからの米の収穫との関係がありますので、その秋か翌年か、 時にはもっとのびることもあります。 今上天皇陛下の時は、大正十五年十二月二十五日に先帝大正天皇が崩御(ほうぎょ)遊ばされ、その日に践祚されました。そしてこの日から後を昭和元年と改められました。 ご即位の大典は、京都御所でされる定めて、昭和三年十一月十日に行われ、大嘗祭は同十四日行われています。この大嘗祭の祭場は、全国民が拝観できるように公開されるのですが、これは神武天皇の橿原宮(かしはらのみや)のご 即位の時の先例をひきついだものです。この祭場や拝観の模様は、写真術のない江戸時代などには、町絵師が錦絵などに刷りあげ、遠い国ぐにの人はそれで盛儀(せいぎ)のさまを知ったのです。 神武天皇の即位大嘗祭の様子は、「日本書紀」には、「今諸(イマモロモロ)の虜已(アダスデ)に平け、海内(アメノシタ)に事無(コトナシ)し。天神(アマツカミ)を郊祀(マツ)りて大孝(オヤニシタガフコト)を申(ノ)ぶべし」とおっしゃって鳥見(トミ)の山中に霊畤(マツリノニハ)を立て、皇祖の天神を祭られた、と書いてあります。 このお言葉の中の「大孝を申ぶ」とあるのは、大昔から「みおやのみ教へに従ひしことをのぶ」 と読んできました。 みおやのみ教えというのは、高天原から降りる時に、天照大神から米の種子を授(さずか)り、これを地上で作れとのお教えであります。このお教えをお守りして、このように美しい米が、たくさん取れましたということを、その産物を神前にお供えして奉告することが、「大孝を申ぶ」ということであります。 「日本書紀」はこの一句で、昔の日本人ならだれにもわかったことをしるしたのですが、「古語拾遺」は、天皇の大和平定後の諸国開発と産業振興(さんぎょうしんこう)の事情を、実に詳細(しょうさい)実に詳細にしるしています。 平安朝の始めごろになると、この史実を書き残す必要があったのです。それは多くの人が忘れたからです。 「古語拾遺」を書いた斎部広成(いみべのひろなり)は、斎部氏という、神代からつづいた氏族の最長老で、このころすでに八十歳を超えた翁(おきな)でした。 今人(いまのひと)は昔を忘れ、若者は昔の話をする老人を軽んじると憤っています。 そして平城(へいぜい)天皇のお言葉で、古事を語れることに、生命のあった生甲斐を 味わっているのです。広成は立派な学者です。 江戸の晩期に出た平田篤胤(ひらたあつたね)は、本居宣長(もとおりのりなが)の学問をうけついだ大学者ですが、「古語拾遺」を読んで、広成の心持ちを察し、涙を流して感動し、 感謝したと、くりかえし語っています。 皇后(きさき)を定められる ご即位の大典も終わり、次に、皇后を定められることになりました。その皇后の候補者(こうほしゃ)に選ばれたのは、三輪(ミワ)の大物主神(オホモノヌシノカミ)の御子(みこ)の伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)でした。 ある時七人の少女(ヲトメ)が高佐士野(タカサジヌ)で若草をつんで遊んでいました。 伊須気余理比売もその中におられます。 大久米命(オホク メノミコト)は伊須気余理比売のおられるのを知って、歌で天皇に申し上げました。 倭の高佐士野を 七行(ナナユ)く 媛女(オトメ)ども 誰(タレ)をしまむ 「誰をしまかむ」というのはどなたを皇后にお選びになりますか、と天皇にお伺(うかが)い申したのです。 天皇は七媛女をごらんになった時から、いちばん先頭に立っているのが伊須気余理比売だとご存じでしたので、お歌でお答えになりました。 かつがつも最先立(イヤサキダ)てる 愛(エ)をしまかむ まあまあ、先頭に立っているあの愛らしい子を、皇后にしましょう というほどの意味のお歌です。 天皇は三輪山の西の麓(ふもと)の狭井河(サイカハ)のほとりにあった伊須気余理比売の家へ行幸(ぎょうこう)されました。 狭井河というのは、このあたりには山百合がたくさんあったからついた名でした。 今も初夏のころにこの山百合の花をかざって、百合祭りという非常に優雅(ゆうが)なお祭りが行われます。 天皇が狭井河のほとりの皇后のもとへおこしになったあと、そのことをお歌に歌われました。 葦原(アシハラ)の しけこき小屋(ヲヤ)に 菅畳(スガタタミ)いや清(サ)や敷(シ)きて 我が二人寝し お歌の心は、あの建物はあらっぽい小屋だった、 清らかな菅畳を、美しく敷き重ね、その上で寝たね、というやさしいお歌です。 この皇后が、神武天皇崩御(ほうぎょ)のあとの国の動揺(どうよう)を未然に防がれた様子が、「古事記」に歌物語として語られています。 神武天皇の盛業をうけつぐうえ で、非常に重大なことで、皇后の毅然としたご気象のうかがえるところです。 三輪の大物主神(オホモノヌシノカミ)というのは、大和の桜井市の三輪神社にお祭りしてあります。 俗に三輪明神といい、お山がご神体です。 天照大神の御(おん)弟の素戔鳴尊(スサノヲノミコト)は、高天原(タカマノハラ)から出雲の国へ降りられました。 尊(みこと)の御子(みこ)の大国主命(オホクニヌシノミコト)は、産業をおこして日本の国を大方に平定されました。 俗に大黒(だいこく)さまと申すのはこの神のことです。 天照大神の御孫(おんまご)の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が、高天原から地上へ天降(あまくだ)られる時、 高天原の神と出雲の神との間で、大国主命のひらかれたこの国土を、天照大神の御孫にお譲りする交渉がありました。 国を譲られた大国主命は、将来、天神のご子孫は大和国へゆかれると、神の知恵で知られましたので、 そのご子孫のために、 大和国の三輪山にご自身御魂(ミタマ)をしずめ、 また飛鳥と加茂の二つの神奈備(カムナビ)の森に御子(みこ)の御魂(みたま)をしずめ、 御子の事代主命(コトシロヌシノミコト)を、大和盆地の中央に祭られて、天神のご子孫をお待ちしていました。 特に尊い三輪の神のご子孫の姫神 が、建国第一代の神武天皇の皇后となられたということは、まことに深い大国主の神のおんはからいのようです。 このご婚礼によって、日本国の建国は、何もかも見事におさまったわけです。 日向国(ヒムカノクニ)へ高天原の大神の御孫の神が、 天降られたころに、大和国へ高天原から降ってこられて、 大神の御孫の神のご子孫をお待ちしていた神がみの話は、饒速日命(ニギハヤビノミコト)は古典にも出ていますが、 丹生津姫神(ニフツヒメノカミ)のことも、千年も昔にしるされた古典に残っています。 この姫神は、吉野河に沿った大和国から紀伊国(キノクニ)にかけて巡幸せられ、水田で米を作り、 新嘗(にいなめ)の祭りをするわが国の生活の基本を教えられました。 吉野河の上流の小村(オムラ)にある丹生(ニフ)神社は、丹生津姫神を祭る大社で、 神武天皇が、戦況の最も苦しい時に、厳粛(げんしゅく)なお祭りをして、高天原の神にお祈りをされたご遺蹟です。 天武天皇も一時ここに逃避(とうひ)され、後もこの社(やしろ)を特に崇敬(すうけい)されました。 神武天皇の古事を、ご念頭に遊ばしてのことだったでしょう。大和の山間には、高天原から神がこの地へ降りてこられたという伝えがあちこちに残っています。 神武天皇と国民 「日本書紀」の巻第三は、神武天皇の御(オン)一代記で、「神武天皇御紀(オンキ)」というのは、この第三の巻のよび方です。 この巻は舎人親王(とねり しんのう)が特に心魂をこめてしるされた、「日本書記」の精髄(せいずい)の一つです。 文章の章句のみならず、語句の一語にも、漢籍(かんせき)の古典をもとにして、深い思想がこめられ ているのです。 これらの思想を理解するために、朝廷では平安朝の始めから「日本書紀」の研究がつづけられました。 公卿(くぎょう)・諸貴族の家いえでも、その家の学問として伝えました。 民間の学者、神道家、兵法家、国学者、また一般の武士や知識人も、この「神武天皇御紀」から、 さまざまの思想を学びました。 国家に一大事という時、国の存亡の危機を国民が意識した時、建国の日の苦しみを回想することは、東西古今に見るところです。 危機再建の日に、建国の大事業を回想するということは、興隆の原動力です。 わが国の過去の歴史を見ましても、万葉集の時代から、国の重大な危機には、神武天皇建国の日を思って、更生の活力を、自他の心にふるい起こしました。 その第一人者は、わが国の最大の詩人だった万葉集の柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)です。 人麻呂は壬申の乱(じんしん らん)(約千三百年前)といわれる、わが国未曽有(みぞう)の危機の日に、神武天皇建国の史実を歌いあげることによって、自他の心に、永遠の信実を強調しました。 万葉集を作られた大伴家持(おおとものやもち)は、一族の若者を教える時は、神武天皇の橿原宮(かしはらのみや)の回想からせよと言いました。 江戸幕府の末期、国際情勢からも日本国を強固にせねばならぬと考えた時、学者や有識人は 神武天皇建国のご事蹟を思い出して、復古の思想をとなえたのです。 そのころでは民衆までも西洋諸国のアジア侵略(しんりゃく)の実態を知り、生活の経済の困窮(こんきゅう)などから、 漠然(ばくぜん)と世の中の建て直しの時代がきたと感じました。 こうして時勢に不安を感じた民衆は、全国から伊勢の皇大神宮(こうたいじんぐう)へ大挙して参拝したのです。 いわゆるお蔭まいりで、これは類のない歴史上の大事件でしたが、このおまいりと同じように畝傍(うねび)山の神武天皇の御陵(ごりょう)へ群衆が押しかけました。 この民間信仰に は熱狂的なものもあって、その証拠の石碑石灯籠(せきひいしどうろう)などが残っています。 この神武天皇信仰は維新後もつづき、橿原神宮の創建は、この民間信仰から、民間で私社(ししゃ)を作ろうとしました。 私社はまずいと考えた人びとが、代わりに官幣大社(かんぺいたいしゃ)橿原神宮を建てる運動をしたのです。こうして今の神宮が建ったのです。 天保八年(一八三七年)に大坂の陽明学者の大塩平八郎(おおしおいはちろう)は、諸民の困窮に心をいため、世直を実行しようと、兵をあげました。 この時大塩平八郎が、近畿地方にまいた檄文(げきぶん)の中に、今 困っている人びとのくらしを、 天照大神の時代までもどすというのはおそれ多く、できないことだが、せめて神武天皇の大御代(おおみよ)のごとくに今の世の人びとを安堵(あんど)させたいのが自分の願いだ と書いています。これは当時の国民が、すでに、世直しということと、神武天皇の大御代ということとに、あい通う理想を感じていた証拠(しょうこ)であります。 大塩平八郎の世直しということは、江戸幕府を滅ぼして、朝廷のまつりごとをうちたてることだったのです。