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七道とは

七道は、かつて七堂濱と呼ばれ。行基(668~749)が神亀元年(724)に開いた清浄土院高渚(たかす)寺の七堂伽藍があったためと言われている。2016年にできた「イオンモール堺鉄砲町」はダイセルの工場があった。

  MAPへSP七道へ ①放鳥銃定限記と鉄砲鍛冶射的場跡

大正3年(1914)に運河掘削工事現場から漢文碑・放鳥銃定限記が出ました。「鉄砲師範・小濱民部丞嘉隆は文武両道で試射場を作って砲術研究を重ねた」とあり、寛文4年(1664)に砲術家・川名金衛門忠重が立てたものです。鉄砲鍛冶射的場跡は大正13年(1924)建立。かつて七道には周囲約9メートル、高さ約1.8メートルの鉄砲塚(現存せず)があり、鉄砲制作すると塚から大和川の的に試射しました。鉄砲にゆかりが深い土地で駅界隈は鉄砲町といわれる。

  MAPへSP七道へ ②河口慧海顕彰立像

河口慧海(1866~1945)は仏教学者、探検家で樽職人・善吉と常の6人兄弟の長男です。本名・定治郎。清学院、錦西小で学びますが「職人に学はいらぬ」と父の方針で退学。しかし慧海は懇願して儒者・土屋鳳州の私塾・晩晴書院で学び、釈迦一代記を読んで出家を志します。父は「長男の出家は困る。代りに弟を出家させる」と三男の岩吉、四男の善七を出家させて阻止。鬱屈した慧海は徴兵令改正反対で天皇直訴を企てたり、宣教師からキリスト教を学んだり、堺市の小学校で教員をしたり、結局、東京の黄檗宗五百羅漢寺に寄宿して哲学館(後の東洋大学)に入学。明治23年(1890)に得度して同寺住職になりますが日本仏教界の腐敗に怒って辞職。仏教原典入手のためにチベット行きを決心して明治30年(1897)に堺や大阪の友人の支援を受け、神戸港から出発しました。当時、チベットは鎖国で密入国者は死刑でしたが、クン・ラ峠(標高5411メートル)越えで明治34年(1901)、日本人として初めてラサに到達。ラサ三大寺院のひとつ・セラ寺で学びますが素性がばれて翌年、脱出。帰国後「西蔵旅行紀」(Three Years in Tibet)を発表すると一大センセーションとなり英訳も出る。その後、チベットが清に侵略されてダライ・ラマ13世が亡命すると慧海はインドで接見。再訪を許されて大正2~4年(1913~1915)にチベット入り。多くの仏典、仏像、仏画、仏具、民俗資料、動植物・鉱物標本を入手する(東北大学に保管)。以後は仏典研究を続け、晩年は「蔵和辞典」編集に没頭しますが、1945年2月に世田谷の自宅で逝去。銅像はチベットに向かう慧海の像。

  MAPへSP七道へ ③菅原神社御旅所

「堺の天神さま」こと菅原神社の御旅所です。社伝では菅原道真(845~903)が太宰府より手彫の木像を海へ流し、それが摂津国北の庄・海船濱に流れ着き、天台宗威徳山天神常楽寺の僧徒が天神社を創建して木像を祀ったことが社の縁起です。御旅所内の石灯籠に寄進者「樽善」(樽屋善吉。慧海の父)が刻まれています。

  MAPへSP七道へ ④海船政所(まんどころ)跡

永正元年(1504)、阿波守護・細川澄元の家臣・三好長輝(1458~1520)が阿波と京の中継として海船町に館を建て、孫の元長(1501~1532)の頃に完成しました。東西360歩(約650m)、南北720歩(約1300m)の大館で、大永元年(1521)には「政所」の号を。高楼があって四方を監視し、事が起こると鐘、太鼓を鳴らして郎党に知らせた。元長没後も長慶、義興、義継などが居住して摂ノ尼崎ノ城、泉ノ新堀城、岸和田ノ城、河ノ小山、古市ノ諸城などを束ねる三好一族の本城的役割を果す。

  MAPへSP七道へ ⑤旧十八屋(櫻館)

江戸時代に「十八屋」という仕出し屋を営んでいたようだが、近年は「櫻館」という建物名で地域コミュニティーの場として活用がすすめられている。 外観は1階の丈の高い格子状の駒寄(こまよせ)、2階の虫籠窓(むしこまど)が近世民家の様相を示している。内部は、北棟1列3室・南棟1列2室の座敷からなり、共に「トオリニワ」の土間が設けられている。

  MAPへSP七道へ ⑥河口慧海生家跡

1866年、ここ、北旅籠町西3-11の樽職人・善吉と常の6人兄弟の長男として生まれる。

⑦千日井

この辺りの道路は土居川と呼ばれる環濠の北部分を埋め立てた道路で、西から千日橋、北之橋(大道筋)、稲荷橋が架かっていた。七道は、かつて七堂濱と呼ばれました。行基(668~749)が神亀元年(724)に開いた清浄土院高渚(たかす)寺の七堂伽藍があったためで、千日井は、その寺の井戸といわれています。上水道整備がされるまで地元民の優れた飲料水源でした。「此の井は行基菩薩七堂構榮の地に鑿掘したるところと傳ふ 今や蒲生氏及び其一族の特志により修理の巧を竣へ清泉滾々として盡きす 汲む人其遺澤を憶へ 四天王寺現薫 大僧正 大應 撰書」の石碑(1930年建立)と、行基石像板、文政9年(1826)に神南辺道心が発起、宗見寺真誉上人が導師、付近の農民が世話人で建立した岩喜兵衛(土居川・千日橋の建立者)と水難者の供養碑があります。道心は「燗鍋弥兵衛」と呼ばれた堺の鋳物師ですが酒に溺れて妻を病死させ、育児も放棄。荒れた生活を送りますが、僧となった息子に「父を救えない私を殺して下さい」と泣いて懇願されたことで罪を悟って仏門に。以後、堺、大阪、奈良、和歌山で自ら汗まみれになって井戸、橋、堤防、道標などを作って困窮者救済に尽力。嵯峨御所から錫杖を下賜され、聖者と崇められながら天保12年(1841)に没しました。

  MAPへSP七道へ ⑧清学院

元禄2年(1689)の堺大絵図には山伏清学院とあります。江戸末の建築で不動堂、庫裏、門は国の登録文化財です。修験道場ですが幕末から明治5年(1872)まで習字手習いの寺子屋として使用され、慧海も学びました。

  MAPへSP七道へ ⑨薫主堂

天然の素材で手づくりされているお香の老舗。創業は明治20年と100年以上の歴史があり、建物も江戸時代の後期に建てられたもの。堺は日本で初めて線香がつくられた街で、薫主堂さんは昔ながらの線香にこだわって、今でも伝統的な技法でつくられているようである。

  MAPへSP七道へ ⑩鉄砲鍛冶屋敷

「鉄砲記」(1606年頃・南浦文之玄昌著)には、天文12年(1543)、種子島に鉄砲が伝来すると、堺の商客之徒・橘屋又三郎が来島して鉄砲製法を学び、堺に伝えて「鉄砲又」と呼ばれたとあります。和歌山市・金剛宝寺には「那賀郡堺鋳工橘屋又三郎」銘の天正3年(1575)の梵鐘があり、又三郎は鉄砲、梵鐘など金属を扱う鋳物師と推測されています。いずれにせよ鉄砲製法が堺に伝わると堺は瞬く間に日本一の鉄砲生産地になりました。鉄砲鍛冶屋敷は江戸時代から続く鉄砲鍛冶・井上関右衛門の居宅で堺大絵図(1689)にも記載され、最古級の町家建築かつ堺鉄砲の生産現場が残る貴重な建築物で、市の指定有形文化財です。多くの鉄砲史料や日本一といわれる高さ1メートル、長さ2メートル余りの吹子が保存されています。

  MAPへSP七道へ ⑪北之橋跡

中世・堺は環濠自治都市でした。環濠は秀吉によって埋められましたが江戸初期に復活。その環濠の紀州街道出入口に架けられたのが北之橋です。長さ7間(約12.7メートル)、幅2間半(約4.5メートル)の幕府管理の公儀橋で、大門と高札場がありました。堺市史によれば北之橋から南之橋(現在の少林寺橋)まで長さ24町37間(約2.7Km)と記されている。

  MAPへSP七道へ ⑫榎並屋勘左衛門・芝辻理右衛門屋敷(えなみや)

榎並屋勘左衛門家は江戸幕府の御用鉄砲鍛冶として重用され、芝辻理右衛門家とともに鉄砲年寄として堺の鉄砲鍛冶の中心的地位にありました。徳川家康から大坂冬の陣の前に1,000挺の鉄砲を急いで製造するようにという徳川家康からの命に応え、その功労により元和元(1615)年、高須の地(高須神社付近)を賜りました。屋敷は、榎並屋助左衛門家と向かい合って桜之町西1丁で、大道に面して西にありました。鉄砲を作る技術はその後、刃物、自転車の製造へとつながり、堺の伝統産業の礎となりました。現在もこの周辺に刃物、自転車の工場が多いのはそのような歴史を引き継いでいるからです。

  MAPへSP七道へ ⑬水野鍛錬所

創業1872年明治5年(1872年)創業の日本刀・庖丁を鍛える工房です。戦後の法隆寺の大改修の時、国宝五重塔九輪の四方にかかっている「魔除け鎌」を鍛造し、昭和27年(1952年)に奉納しました。「魔除け鎌」は200~300年に一度かけかえられるとのことですが、1300年前のものも含まれる法隆寺の古釘を集めて作られています、また、全日本学生相撲選手権優勝者に贈られる日本刀の鍛刀もしており、元横綱輪島関や元大関朝潮関なども持っている。

  MAPへSP七道へ ⑭山口家住宅

山口家住宅は、江戸時代初期に建てられた町家で、昭和41年(1966)に国の重要文化財に指定されました。同家は、江戸時代、近隣農村の庄屋を務め、奉行所と町方・村方をつなぐ役割も担っていました。元禄2年(1689)『堺大絵図』で、東の山口筋を表側として山口家の屋号である「越前屋」の名で記されています。

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