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スポット情報(あ) まち朝潮橋 阿波座 今里 今里ライナー 江坂 恵美須町 まち扇町 大阪港・天保山 大阪城 大和田街道 まち朝潮橋

1朝潮橋・世紀の森土工事

新田として開発された港区には、水利や運搬に利用された井路川が網の目のように通じていました。
明治36年(1903)、 西区の花園橋から築港に至る築港大道路 (現在のみなと通) が完成したときに、
井路川に多数の橋が架けられました。
朝潮橋は、 井路川を拡幅した安治川運河 (八幡屋運河)に架けられた橋です。
港区は、地盤沈下と高潮被害から土地を守るために、
昭和23年(1948) に区域内の490haの面積に2mの盛り土で嵩上げして
区画整理するという前代未聞の大事業に着手しました。
強い反対もありましたが、工事中にジェーン台風に襲われて大きな被害が出たにもかかわらず、
盛り土が完了していた地区には高潮被害がなく、
これを機に工事の機運が高まり、建物だけでなく市電軌道と道路の嵩上げ、
社寺の移転、 公園・学校の整備もなされるという世界でも類のない世紀の大工事となりました。
同時に安治川を拡幅し、
三十間堀川と天保山運河を浚渫して河川改良を図り、採取した土砂を盛り土に利用するなど、
工事は20年近くの歳月を費やして完成しました。
朝潮橋が消えたのも昭和26年(1951)に安治川運河が埋め立てられて盛り土されたからです。
朝潮橋駅は築港大道路に敷設された大阪市電の 停留所名になっていましたが、
橋が消えたあとにも駅名は残り、市電廃止後、現在ではOsaka Metro 中央線の駅名に受け継がれました。



まち朝潮橋 2三津神社・夕凪

三津神社は、明和元年(1764)に石田三右衛門が石田新田を開発するときに天照皇大神を勧請したのが創始とされています。
明治の晩年に田中産土(うぶすな)神社(大海大神(おおあまのおおかみ))を合祀し、さらに大正期に八幡屋(やはたや)住吉神社を合祀して、昭和になって社号を三津神社と改称しました。
昭和42年(1967)に盛り土工事と換地により安治川近くから現在地に移転しました。
地名のタ凪は、近くの井路川に架かっていたタ凪橋から生じたものです。
大阪市電唱歌には「波は音せぬタ凪や」と歌われています。

まち朝潮橋 3唯称寺

唯称寺は安治川拡幅工事で現在地に移転しましたが、もとの場所は現在の安治川に面して、門前から安治川を渡る「松の鼻の渡し」がありました。
慶応4年(1868)に鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜が大坂城を脱出して海路で江戸へ逃げようとしたとき、ここから天保山沖の軍艦に向かいました。

まち朝潮橋 4三先天満宮

天保6年(1835)、池田屋大吉が新田を開発するにあたって勧請し、現在の三先、池島地区の氏神となっています。
戦災と台風で大きな被害を受け、盛り土工事と港南中学校の拡張に伴って現在地へ遷座されました。
末社の「寝牛社」は牛の形をした霊石で、かけらを煎じて飲むと眼病に効くとされ、頭から首にかけて削り取られています。

まち朝潮橋 5三十間堀川

三十間堀川は天保山運河と尻無川を結ぶ短い水路で、明治時代の港の埋め立てエ事で放水路として埋め残された部分といわれています。
現在はコンクリートの背高い護岸擁壁に遮られて外から水面が見えません。

まち朝潮橋 6勝利の女神(池島公園)

台座に「当公園と彫像は、地元の人々の多大な協力によってすすめられた、この歴史に残る土地区画整理事業を記念して建設されたものであり、他の20数力所の公園とともに、新しい地域社会の憩いの場となることを念願する」と書かれ、大事業を成し遂げた地元の人々の誇りが「勝利の女神」として表れて、昭和55年(1980)に建造されました。

まち朝潮橋 7八幡屋公園

文政12年(1829)に八幡屋忠兵衛が開発した八幡屋新田の地に、大正12年(1923)に競泳プールや陸上競技場、野球場などを備えたl2haの大阪市立運動場として建設されました。
戦後には国際大会を開催する陸上競技場として改装され、国際見本市会場にもなりました。
その後、陸上競技場は長居公園へ、見本市会場はインテックス大阪へ移設しましたが、平成9年 (1997)に「なみはや国体」を開催するにあたって、大手前にあった大阪市中央体育館と扇町公園にあった大阪プールをここへ移転しました。
体育館は樹木の覆う小高い山になった半地下構造の外観が特徴的です。

まち朝潮橋 地図 スポット情報 阿波座
1.阿波座・阿波堀川跡碑

豊臣期に船場の西側(下船場)に阿波の商人が居住した地域が阿波座で、西日本の海産物や物産を取引していました。
慶長5年(1600)、西横堀川と百間堀川(ひゃっけん)・木津川を結んで阿波座の中央を貫ぬいて阿波堀川が掘られ、西国からの交易が活発になりました。
阿波堀川は昭和31年(1956)に区画整理事業で埋め立てられました。

阿波座 西区1 スポット まちさんぽ 2.雑喉場橋之碑

雑喉場橋は碑の東側で百間堀川に架かり、雑喉場魚市場と対岸の江之子島を結んでいました。この碑は大正期に改築された親柱の上に当時の照明灯を復元したものです。

阿波座 西区1 スポット まちさんぽ 3.大阪市役所 江之子島庁舎跡碑

明治22年(1889)に市制施行により大阪市が誕生しました。
府知事が市長を兼任し、江之子島府庁内に市役所が置かれていましたが、 明治32年(1899)に木津川橋東詰の木造2階建て新庁舎へ移転し、その後、明治45年(1912)に堂島庁舎へ移転しました。

阿波座 西区1 スポット まちさんぽ 35.木津川橋

木津川橋は慶応4年 川口と江之子島を結ぶ新大橋として架けられた
当時 川口には大阪開市・開港に備えて運上所 (税閔)が設置され 続いて居留地が設けられて 新しい町並みが出現しつつあった
また江之子島には 明治 7年に大阪府庁が建設されるなど行政の中心地であった
木津川橋は明治9年には橋脚など一部鉄製となり 橋面は歩道と車道が分離された初めての橋となったが 明治18年の洪水で流出した
明治21年には輸入鉄材を使用した椅長75.3m 幅員 10.4mの鉄橋 となった
その後大正2年には市電の開通によ り橋長72.7m 幅員21.8mの3経間の立派なア ーチ橋になった
現在の橋は昭和41年に高潮対策事業の一つとして架け換えられた橋で橋長75.55m 幅員21.60mの鋼桁橋である
平成10年 大阪市

阿波座 西区1 スポット まちさんぽ 4.百間堀川跡

阿波堀川の開削後、下船場には5本の堀川が東西に掘られて海運を促進しました。
それらの堀川を木津川に配するために掘られたのが百間堀川で、雑喉場川とも呼ばれました。
百間堀川と木津川に挟まれた島が江之子島です。

阿波座 西区1 スポット まちさんぽ 5.雑喉場魚市場跡碑

当初は天満にあった魚市場が、江戸初期にここに移転して大きくなり、九州・四国・淡路・伊勢ほか各地から生魚を集める3千余坪(約1万㎡)の西日本最大の魚市場を形成しました。 市場は昭和6年(1931)に大阪市中央卸売市場開場後に閉鎖されました。

阿波座 西区1 スポット まちさんぽ 6.京町堀川跡

元和3年(1617)に京・伏見の京町から移住した町人によって掘られた運河で、西端に雑喉場市場があり、阿波掘川との間には靭塩干魚(うつぼしおひもの) 市場がありました。昭和30年(1955)に埋め立てられました。

阿波座 西区1 スポット まちさんぽ 7.靭海産物市場跡碑・靭公園


江戸時代、日本中から塩干魚(しおひもの)、鰹節などの海産物が集まった市場です。江戸時代の庶民はおもに干し魚を食べ、また、大坂近郊の農村では肥料として干鰯(ほしか=乾燥イワシやニシン)の需要が高まり、靭市場は活況を呈しました。
市場は昭和6年(1931)に大阪市中央卸売市場開場によって閉鎖され、その後は空襲で廃嘘となり、戦後は占領軍の飛行場になっていました。
昭和27年(1952)に返還されたあと、大阪市が靭公園として整備しました。

阿波座 西区1 スポット まちさんぽ 8.楠永(くすなが)神社

ここに御霊神社の元宮がありましたが、豊臣時代に淡路町に移転しました。
その後に2本のクスノキを主神とする楠永神社が創建されました。クスノキを伐採しようとして怪我人が相次ぎ、白蛇が現れたという伝承があります。

阿波座 西区1 スポット まちさんぽ 9.海部(かいふ)堀川跡・永代浜跡碑

下船場の船運の利便性を一層高めようと、商人の海部屋が開削したのが海部堀川です。
阿波堀川と結んで荷揚場として開発した場所が永代浜で、海産物取引の拠点になり、やがて鰹節の専門市場を形成して靭の中心地になりました。
楠永神社境内に永代浜碑があります。

阿波座 西区1 スポット まちさんぽ 10.梶井基次郎碑

梶井は明治34年(1901) に土佐堀で生まれ、旧制北野中学在学時に靭に住んでいました。代表作 『檸檬』の―節が石碑に刻まれています

阿波座 西区1 スポット まちさんぽ 11.大塩平八郎終焉の地碑

天保8年(1837)、飢謹からの「救民」を唱えて幕府に反乱を起こした大坂東町奉行所の元与力・大塩平八郎が、捕り手に追い詰められたところが靭油掛町の美吉屋五郎兵衛宅でした。
大塩父子は包囲されるなか爆死したと伝えられています。

阿波座 西区1 スポット まちさんぽ MAP阿波座 埋め立てられた堀川

昭和31(1956)年まで、現在の阿波座付近には阿波堀川(あわぼりがわ)(阿波座堀川 ともいう)とよばれる堀川がありました。
慶長5(1600)年に開削された堀川で、
今の本町通と阿波堀通との間を、東の西横堀川から西の百間堀川(ひゃくけんぼりがわ)まで、
東から西へ流れていました。
阿波座という地名を聞いたことがあると思いますが、
その名前の由来はこのあたりに阿波蜂須賀(はちすか)家の屋敷があり、
また阿波(現在の徳島県)の商人が多く住んでいたことからなどともいわれています。
阿波堀川の名前はこの阿波座に由来すると考えられています。


明暦(めいれき)(1655~1658年)の頃、周辺には材木問屋、
船宿などがあり、西側には雑魚場魚市場(ざこばうおいちば)がありました。
後に大阪府庁が置かれた江之子島(えのこじま)も近く、
かつては今よりもずっと賑わっていた場所だったのです。
本町道とあみだ池筋との交差点は岡崎橋と呼ばれていますが、
橋の名前が唯一残されています。
今ではこの岡崎橋の名前と、
大阪西郵便局の横にある埋立ての竣工を記念する石碑が、
ここに堀川のあったことを伝えてい ます。
(大阪市教育委員会事務局 文化財保護課)

歴史探訪194
阿波座 西区1 スポット まちさんぽ 阿波堀川跡碑 (西区江之子島2丁目 大阪西郵便局)
nisi/kaw
阿波座 西区1 スポット まちさんぽ 川口基督教会



阿波座 スポット情報 大阪メトロ散歩 今里

暗越奈良街道の今里



1.4代目桂米圏治顕彰碑

4代目桂米圏治は「楽語荘」に参加する一方で、代書人(行政書士兼代筆業)の営業許可を得て東成区役所の近隣(現区役所の敷地内)で営業し、その経験から創作した落語『代書』(『代書屋』とも)で爆発的な人気を得ました。
人間国宝となった3代目桂米朝の師匠でもあります。
碑には自作川柳「儲かった日も代書屋の同じ顔」が5代目未團治の筆で書かれています。

今里 スポット まちさんぽ 2.大阪セルロイド会館

このあたりは江戸時代から櫛(くし)、簪(かんざし)の製造が盛んで細工技術の蓄積があり、明治以降はセルロイド、マッチ、金網などの軽工業が地場産業として定着しました。
なかでもセルロイド工業は新素材として脚光を浴び、日用小物や玩具などが輸出されました。
大阪セルロイド会館は昭和6年(1931)の最先端の昭和モダニズム建築です。

今里 スポット まちさんぽ 3.暗越(くらがりごえ)奈良街道・道標

暗越奈良街道は大坂と奈良を最短距離で結び、古代では大仏開眼 に招かれたインド僧や鑑真(がんじん)和上、唐使節も通った平城京への主要路でした。
江戸時代には参勤交代の街道にもなり、伊勢詣でにも利用されて1日に7~8万人の通行者で賑わいました。

今里 スポット まちさんぽ 4.謎のコンドル(今里西之口公園)

神武天皇が東征して大和地方長髄彦(ながすねひこ)と戦っていたときに、金鵄(金色のトビ)が天皇軍を勝利に導いたという神話から製作されたといわれ「謎のコンドル」と呼ばれています。
かつて東征の道は暗越奈良街道だと想定され「神路」という町名も現存しています。

今里 スポット まちさんぽ 5.熊野大神宮

用明天皇2年(587) に創建された古社で、伊弉冊尊(いざなみのみこと)ほか5柱を記る旧大今里村の氏神です。
何度か再建され、江戸時代には熊野権現と称していました。
明治5年 (1872)に熊野大神宮と改め、のちに旧東今里村氏神の八劔(やつるぎ)神社を合記しました。

今里 スポット まちさんぽ 6.妙法寺・契沖(けいちゅう)

妙法寺は江戸時代、『万葉集』の注釈書『万葉代匠記』を著した著名な国学者・契沖が11年間住職を務めた寺院で、境内に遺跡があります。
商売繁盛の大黒天が祀られ、「南には今宮の戎、東には今里の大黒」と信仰されました。

今里 スポット まちさんぽ 7.火袋(ひぶくろ)道標

ろうそくを灯して夜間の物資運搬の目印とした灯籠型の道標です。
側面に「江戸積釘問屋」、 「左ならいせ道」「右八尾久宝寺」と書かれ、かつては暗越奈良街道から北八尾街道への分岐点に建てられていました。

今里 スポット まちさんぽ 8.赤レンガ倉庫

可燃性のセルロイドを保管するために建てられた赤レンガ倉庫で、今里のセルロイド工業の盛況を伝える貴重な産業遺産です。
現在も倉庫や店舗として利用されています。

今里 スポット まちさんぽ 9.芸人の町・片江顕彰板

昭和7年(1932)に2代目笑福亭枝鶴(しょうふくていしかく)が片江町に転居し、漫談家・花月亭久里丸、続いて漫才師・横山エンタツ、都家(みやこ)文雄も住みはじめて、芸人の町が形成されました。
昭和10年(1935)に2代目枝鶴が大名跡5代目松鶴(しょかく)を襲名すると、自宅を「楽語荘」と称して同人を募り、落語集『上方はなし』を発刊するなど若手の育成、落語の保存に尽力しました。
戦後に衰退していた上方落語が片江から勢いを盛り返し、6代目笑福亭松鶴、5代目桂文枝、2代目笑福亭松之助、3代目桂米朝(人間国宝)'4代目桂米圏治、3代目桂米之助といった多くの逸材が育ちました。

今里 スポット まちさんぽ 10.平野川分水路・片江七福橋

平野川の洪水対策として平野川分水路が昭和33年(1958)に開削されました。
分水路へは八尾や平野区方面からの川水が分流されて、洪水による被害は著しく減少しました。
北八尾街道に沿って片江七福橋が斜めに架橋されています。

今里 スポット まちさんぽ MAP今里ライナー


スポット今里ライナー
Bonheur_Kitchen

Bowl Pond Plaza つむぎ商会 イリマメニハナ
Ce Que J'aime


地図へ 江坂 江坂が榎坂だった頃の歴史を求めて

昭和45年(1970)に大阪万博開催の年に御堂筋線江坂駅が開業し、副都にといわれるほど爆発的に都市化が進みました。
この地は1000年ほど前の平安時代に貴族や有力寺社の荘園が設けられて榎坂郷が生まれたのがはじまりです。
それ以来、高川左岸のとても豊かな農村地帯でした。


1.岡本太郎作品(ダスキン本社・豊津公園)


大阪万博の「太陽の塔」をデザインした芸術家・岡本太郎の壁画「みつめあう愛」がダスキン本社の2階ピロティに、そして豊津公園には愛称 「リオちゃん」の造形物が設置されています。

江坂 スポット情報 大阪メトロ散歩 2.横関街道、吹田街道、榎坂東道標・西道標



大坂から池田へ、むかしの中津川の横関の渡しを通っていた南北の道が横関街道、能勢街道と亀岡街道を東西につなぐ街道が吹田街道で、榎坂村で交差していました。
人々が四方に往来する便利な道で、街道の交差点2か所に道標が残っています。
東の道標には「左り膝(勝)尾寺」、西の道標には「右 かちを(じ )」「右 みのを 中山 すぐ はっとり あま」の文字が読めます。

江坂 スポット情報 大阪メトロ散歩 3.法泉寺・榎坂村大池(江坂大池)


法泉寺は、榎坂村の中心部にある浄土真宗の寺です。鐘楼(しょうろう)は石山合戦のとき米36俵を送った返礼として本願寺から贈られたものと伝えられています。大池は榎坂村の大きなため池でしたが、都市化で縮小し、小学校や幼稚園、公園が建設されました。

江坂 スポット情報 大阪メトロ散歩 4.素戔嗚尊神社(江坂神社)

素戔嗚尊神社は通称を江坂神社といい、榎坂村の産土神として村人によって祀られてきたものです。
神仏習合の影響でインドの神、牛頭天王社が習合されたため、牛頭天王社とも称されていましたが、明治の神仏分離令で、現仕の素戔嗚尊神社に改めました。

江坂 スポット情報 大阪メトロ散歩 5.油かけ地蔵

平安時代の伝説上の人物・小栗判官が通りかかったところ、車が動かなくなり、そばの地蔵尊に油をかけて祈ったら動いたという伝説から、行き詰まったときに地蔵尊に油をかけて願い事をすればたちまち円滑に動き出すと信じられています。
堂内には食用油が置かれており、地蔵尊は油でてかてかしています。

江坂 スポット情報 大阪メトロ散歩 6.高川沿い遊歩道・高川水路橋


高川は千里丘陵に発して豊中市と吹田市の市境を南下し、神崎川に合流します。かってはここに吹田街道の土橋がかかっていました。このあたりは著しい天井川で流れの下を道路が交差し、遊歩道から川の下を横切る車が見えます

江坂 スポット情報 大阪メトロ散歩 7.蔵人稲荷神社・蔵人の街並み

鎌倉時代初めに榎坂郷の農民がこのあたりまで出向いて農地を耕し、そのまま定住して散村を形成し、やがて蔵人村ができたとされています。
そのときから村の鎮守の神として蔵人稲荷神社が祀られてきました。
明治になって集落が発展して、その頃の旧家がいまでも面影を残す街並みがみられます。

江坂 スポット情報 大阪メトロ散歩 8.蔵人遺跡

昭和36年(1961)名神高速道路の建設現場から古代の土器が発見され、その後の発掘調査によって弥生時代から室町時代にかけての複合集落遺跡であることがわかりました。
場所は蔵人村に重なり、掘立柱建物や井戸、耕作地、池などの古代遺構や、青磁器、漆器、箸、下駄、遊具など鎌倉・室町時代の村落遺品が出土しました。
人々が2000年の歴史を受け継いでこの地に暮らしてきたことがうかがえます。

江坂 スポット情報 大阪メトロ散歩 平野ファーム  
地図 スポット情報 恵美須町
1.鼬(いたち)川・名呉(なご)橋跡

四天王寺建立のときに木材を運搬する目的で開削され、
イタチが掘ったという伝承のある川がここを東西に流れていました。
鼬川の紀州街道に架かっていた橋が織女の伝説を受けた 名呉橋で、
大坂町奉行所がここから以南を紀州街道と定めたという記録があります。
名呉橋は現在の阪神高速1号環状線えびす町入口のところです。


恵美須町 スポット情報 大阪メトロ散歩 2.今宮戎神社

聖徳太子が四天王寺西方の守護神として創建した古社です。
当地は古代には「津江庄」「今宮庄」と呼ばれる漁村で、
祭神に戎神と同―とされる事代主神(ことしろぬしのかみ)を祀り、
古来、漁業の神として崇められてきました。
やがて商売繁盛の神として毎年1月の十日戎は、元禄年間から伝わる祭事として新年の大阪の風物詩となっています。



十日戎
「商売繁昌じゃ笹もってこい」 のお囃子が有名な、 商売繁昌・福徳円満の御神徳(御利益)を授かる盛大なお祭りです。
江戸元禄のころには今を思わせる十日戎の祭礼の様子が絵画等で伝えられ、 皇紀一二六〇年 (西暦六百年)の建立より今に至る まで信仰が生き続けています。
一月九日 宵戎 (よいえびす) 十日本戎 (ほんえびす) 十一日残戎 (のこりえびす) この三日間に、多くの参拝者で賑わうこの祭礼では、 境内で笹をお配りし、 福娘が神々 の御魂のかかった御札 吉兆を笹につけ、その福笹を会社・店舗 家庭にお祀 りいただくことによって神々とつながり守っていただくお祭りです。


十日戎の福笹
およそ竹は、 文学 美術 芸能などの世界に古代から深く根をおろし、 人間の実生 活と密接に関係を保ってきました。
なかでも日本人は、 竹の持つ清浄さ、 根強さ、 節によって苦難に堪えしのぶ姿、 冬 にも青々とした葉をつける強い生命力と神秘性を感じとり、 神霊が宿るものとして信 じられてきました。
このような竹に対する感性が、 日々命がよみがえり、 生成発展し ている姿を象徴として神事に用いるようになりました。
十日戎の神事に笹がもちいられるようになったのも例外ではありません。

恵美須町 スポット情報 大阪メトロ散歩 3.廣田神社

神功皇后が三韓征伐からの帰途、難波(なにわ)の海を鎮めるために天照大神の荒魂を祀ったという伝承があり、難病悪疾の護り守として信仰されています。
漁村・今宮庄の守護神で、毎年正 月に御所へ2尾の鯛を貢いだという記録が残っています。浅い海に生息するアカエ(アカエイ)が神使(しんし)とされています。


恵美須町 スポット情報 大阪メトロ散歩 4.長町・日本橋

江戸時代は紀州街道に面してして旅寵(はらご)や木賃宿(きちんやど)が並び、長町と呼ばれて旅人で賑わいました。
『東海道中膝栗毛(ひざくリげ)』の弥次さん・喜多さんも投宿しています。
やがて無宿者が集住して治安が乱れたので、寛政4年(1792)に北側半分が日本橋と改称され、明治にすべて日本橋という町名に変わりました。


恵美須町 スポット情報 大阪メトロ散歩 5.秩父宮同妃両殿下台臨記念碑

昭和初期、不良な長屋が密集していたこの地区に、
大阪市が市営改良住宅を建設して斬新な模範住宅として注目され、
昭和12年(1937)に秩父宮殿下・妃殿下の訪問があり、記念碑が設置されました。
やがてベランダに小部屋が増築されるなど容貌が変化して俗に「軍艦アパート」と呼ばれるようになり、
平成18年(2006)にすべて取り壊されました

恵美須町 スポット情報 大阪メトロ散歩 6.眺望閣・五階

明治21年(1888)、このあたりにできた遊園地の一画に六角柱状の5階建ての眺望閣という展望塔が建てられました。
六甲山から淡路島まで見えると評判を呼んで、周囲に茶店、露店が集まり、一帯を 「五階」と呼びました。
翌年に北野村(茶屋町) に9階建ての陵雲閣が建てられて「ミナミの五階・キタの九階」と大阪名所になりました。


恵美須町 スポット情報 大阪メトロ散歩 7.でんでんタウン8.オタロード

明治半ばになると日本橋には古着や古道具を扱う店が集まって「掘り出し物の町」として賑わいました。
その流れで多くの古書店が出店して学生や文化人など流行に敏感な人々をひきつけ、やがてラジオや蓄音機などを扱う店が増え、日本橋電気街が誕生しました。戦後の復興も早く、時代に即応した電気器具を扱う店が密集して電気街として地位を固め、昭和53年(1978)には「でんでんタウン」という愛称がつけられました。


恵美須町 スポット情報 大阪メトロ散歩 8.オタロード

平成になると郊外型の家電量販店に押されて次第に勢いを失いましたが、
マニアックなゲームソフトやアニメ関連の店舗が急増して再活性化し、電気街からオタク街へと劇的な変貌を遂げました。
近年では海外からの観光客も多く、堺筋の西側は「オタロード」と呼ばれて新たな賑わいを見せています。


恵美須町 スポット情報 大阪メトロ散歩 9.大乗坊(毘沙門天)

四天王寺の守護寺院として創建されましたが、石山合戦のときに現在地に移り再興されました。
明治期までは寺領千坪といわれた大寺院で、「長町の毘沙門さん」と呼ばれて信仰を集めていました。


恵美須町 スポット情報 大阪メトロ散歩 10.難波御蔵・難波新川跡碑
日本橋の方から見た難波御蔵の遠景、白いと松並木が見える「浪速百景」 (1854-60)より

享保17年(1732)の大飢謹から幕府はここ難波村に米を備蓄する蔵を設置しました。
「なんばパークス(旧大阪球場)」の場所で、米蔵が8棟もある大規模なものでした。
米の搬入のために道頓堀川から引水して難波新川(難波入堀川)が掘られました。
「大阪市教育委員会」の説明
江戸時代、このあたりには、難波御蔵とよばれた幕府の米蔵がありました。
享保(きょうほう)18年(1733)につくられたもので、寛政3年(1791)には、今の日本橋三丁目にあった天王寺御蔵(おくら)(高津御蔵(こうづおくら))を合併しました。
白い塀と松並木で囲まれた、 約四万三千平方メートルという広大な敷地には、10数棟の建物が立ち並んでいました。
その中には、3間×20間(約200平方メートル)という大きな蔵もあったといいます。
難波御蔵に米を運搬するために、難波御蔵と道頓堀の間に掘られた水路が難波新川です。
幅は15メートル、全長は852メートルありました。 明治になって難波御蔵は廃止され、その跡は煙草工場となりました。
難波新川も昭和33年(1958) 頃から埋め立てられ、姿を消しました。


恵美須町 スポット情報 大阪メトロ散歩 まち扇町 1.扇町・扇町公園

天満堀川があった頃、現在の天神橋筋に扇橋という橋が架かっていました。
大正2年(1913) に開業した大阪市電の駅名は扇橋駅で、やがて周辺を扇町と呼ぶようになりました。
江戸時代、天満堀川に面して備前藩の蔵屋敷がありましたが、明治になって取り壊され、明治15年 (1882)そこに堀川監獄(大阪監獄署)が造られました。
梅田一帯の発展に伴って大正9年(1920)に監獄を堺に移転 (現・大阪刑務所)、跡地を扇町公園として整備しました。

まち扇町 2.大阪プー ル跡

日米国際選手権水泳大会が大阪で開催されるに際して、昭和25年(1950)に扇町公園内に大阪プールが建設されました。
巨大な円形アーチ型の22,000人の観客席で「最も観客席の多いプー ル」としてギネスブックに掲載されました。
プロレスにも使用され昭和32年(1957)に行われた世界ヘビー級選手権試合「力道山対ルー・テーズ」の名勝負はいまでも語り草です。
老朽化によって平成8年(1996)港区八幡屋公園に移転しましたが、公園の西南角に当時のコース飛び込み台がモニュメントとして残っています。

まち扇町 3.成正寺(じょうしょうじ).大塩平八郎の乱

全国で30万人の餓死者が発生したとされる天保の大飢謹 (1833-4837)では、幕府や豪商が米を囲い込み、米価は6倍に跳ね上がりました。
大坂東町奉行所の与力だった大塩平八郎は大坂城の米蔵打ち壊しを決意して、天保8年(1837)2月19日、養子・格之助と同志門弟25名で「救民」の旗を掲げて早朝に武装蜂起し、近在から300名もの町民が参集して豪商蔵を襲撃し大坂城を目指しました。
これが大塩平八郎の乱です。幕府は2,000名で迎撃し、反乱はタ刻に鎮圧されました。
大塩親子は3月27日に靭本町の潜伏先を急襲されて自爆死しました。
大塩の乱のあと、 幕政の混迷は深まり幕末を迎えます。
幕府逆臣につき墓は許されず、明治になって東寺町西端の成正寺に大塩父子の墓碑が建てられました。
天神橋筋角の蓮興寺には大塩家の墓所があります。

まち扇町 4.天満堀川

阪神高速12号守口線の位置に天満堀川が流れていました。
慶長3 年(1598)堂島川から北へ開削され、この堀川を境に寺町が西と東に分かれて形成されました。
大塩の乱の翌年に北へ延伸されて大川につながりました。
堤に桜が植えられ、川には屋形船が往来し、対岸の桜ノ宮とあわせて絶好の花見の名所になりましたが、昭和43年(1968)に埋め立てられ、その上に高速道路が建設されました。

まち扇町 5.堀川戎神社

6世紀、欽明天皇の時代に創始されたとされたとされる古社です。
江戸時代中期ごろから商手繁盛を願つ1月10日の「十日戎」は盛大で、今宮戎神社、西宮神社(西宮戎)と並んで三大戎とされることがあります。

まち扇町 6.天満西寺町

江戸時代は北野村の静かな寺院町でしたが、いまでは梅田に近づくにつれて繁華な街並みに寺院がのみこまれています。かつての西寺町の面影を求めて寺院の門前をめぐってみましょう(ほとんどの寺院は―般公開されていません)。

光明寺

文禄4年(1595)に開創された浄土真宗のお寺です。北野村の東端にあたります。

夕願寺(せきがんじ)

法華宗のお寺で、天文 5年(1536)に西成郡新家村から移転したとされています

蟠龍寺(ばんりゅうじ)

浄土宗のお寺で、元和元年(1615)に順應上人が中興したという記録があります。

冷雲寺

浄土宗のお寺で、文禄4年(1595)に開創され、昭和20年(1945)の空襲被害も奇跡的に免れたそうです

西福寺(さいふくじ)

慶長17年(1612)に開創された浄土宗のお寺で、俳譜談林派の祖・西山宗因の墓があります。

龍渕寺(りゅうけいじ)

浄土宗のお寺で、慶長19 年(1614)に開創されました。

圓通寺

曹洞宗のお寺で、元和2年(1616)に開創されました。

本傳寺

日蓮宗のお寺で文禄年間 (1590年頃)の開創です。

法界寺

浄土宗のお寺で、文禄2年 (1593)に開創されました。

善覚寺

浄土真宗のお寺で、天正8年(1580)に開創されました。

まち扇町
地図 スポット情報 スポット大阪港・天保山     渡船情報(天保山渡船場) 天保山渡船 動画写真をクリック 夕日の名所 大阪湾ATC 夕日の名所 大阪湾中央突堤ダイアモンドポイント

圧巻の大阪湾中央突堤ダイアモンドポイント。
全面ウッドデッキの展望スペースからは天保山の大観覧車はもちろん舞洲や南港も一望できる

地図 スポット情報 スポット大阪城 大坂城石垣のたのしみ
「大阪城 豊臣石垣館」 いよいよオープン

令和7年4月1日、大阪城公園にあらたに文化財の展示施設、 「大阪城 豊臣石垣館」がオープンします。
大阪城公園の大部分は、 「大坂城跡」として国の特別史跡に指定されています。
その大きな 特徴として、
豊臣秀吉が築いた大坂城と徳川幕府により築かれた大坂城、
2時期の城が同じ 場所に重なって存在している
ということがあげられます。
豊臣期の大坂城は、大坂夏の陣で落城した後、
徳川幕府による大坂城再築に際して、
盛土により完全に埋められたため、現在、地上で見ることはできません。
「大阪城 豊臣石垣館」は、
この地中に埋没している豊臣期大坂城の 石垣の一部を発掘調査により掘り出し、
常時見学していただけるよう整備された施設です。
施設のオープンにより、豊臣期・ 徳川期2時期の石垣を実際に見てくらべることができるように なります。
2時期の石垣の主な違いとして、使用されている石材や角部分の積み方の違いなどがあげられます。
豊臣期のの石垣は大部分が野面(のずら)石 (自然石) を使用していますが、
徳川期の石垣は割石を使用しています。
角部分は、 いずれも 角石(すみいし)の長手方向の向きを交互に変えて積む
「算木積み(さんぎづみ)」という技法が使われています。
一方、豊臣期は形状がさまざまな石材を角石としているのに対し、
徳川期は直方体に精緻に加工した石材を角石とし、
その脇に角脇石(すみわきいし)と呼ばれる石材を配置して、
さらに角石の角度が石垣角部分の稜線に対してほぼ直角になるように積むことで、高い強度を生み出しています。
こうした石材の加工技術や石積み技術の進展によって、より高い石垣を築くことができるようになったのです。
高さでは徳川期の石垣に及ばない豊臣期の石垣ですが、
さまざまな形・大きさの石材1つ1つの特徴を見極め、巧みに組み合わせて積み上げていった石工の高い技術を感じることができます。
春の訪れとともに咲く大阪城公園の花々とともに、ぜひ大坂城跡の石垣をたのしんでいただきたいと思います。

(大阪市教育委員会事務局 文化財保護課)
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