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桜珈琲 長居公園店 イメージ01
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ボタニカル ガーデン大阪 イメージ01
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confiteria S(おみやげ) イメージ01
ボウケンノモリNAGAI イメージ01

地図 スポット情報 中津 謎の皇宮からわが国初の火葬墓所を訪ねて

『日本書紀』によると、皇極天皇4年(645).乙巳(いつし)の変のあと、孝徳天皇は飛鳥から難波へ遷都して難波長柄豊崎宮を造営しました。この皇宮の所在は、戦後に法円坂で難波宮跡が発見されるまで豊崎材の豊崎神社にあったという説が有力でした。



1 富島神社

創建年代は不詳ですが、社伝によると室町時代には存在して、牛頭(ごず)天王社・祇園社と称していたとされています。
主祭神は速素戔嗚尊(すさのおのみこと)で、厄除、病気平癒にご利益があるといわれてれている中津の氏神です。
このあたりは富島と呼ばれていたので明治43年(1910) に社名を改称しました。

中津 スポット情報 大阪メトロ散歩 2 光徳寺 佐伯祐三

戦国時代末期に佐伯祐西が浄土真宗の寺院として開創しました。
洋画家・佐伯祐三は明治31年(1898)に光徳寺住職の次男として生まれ、中津小学校から北野中学校(現・北野高校)、東京美術学校(現・東京芸術大学)へ進み、卒業後フランスへ渡りますが、惜しくも30歳で天逝しました。
パリ郊外の情景などを描いて独自の画風を確立し、日本近代洋画の天才といわれています。
400点を超える作品のうち『郵便配達夫』や『煉瓦焼』など約 60点が大阪中之島美術館に所蔵されています。
兄の祐正が開所した光徳寺善隣館のそばに生誕地碑と墓があります。

中津 スポット情報 大阪メトロ散歩 3 森本薫・文学碑(中津公園

森本薫は、明治45年(1912)に現在の中津6丁目に生まれ、 旧制北野中学校から京都帝国大学文学部を卒業しました。
学生時代から演劇活動に没頭し、卒業後に文学座に参加して演劇台本や映画シナリオなどに多彩な才能を発揮しましたが、肺結核で34歳の若さで亡りました。
作品には『怒涛』『華々しき一族』そして故・杉村春子の名演にくなよって文学座の「財産演目」といわれる『女のー生』などの名作があります。
文学碑が中津公園にあります。

中津 スポット情報 大阪メトロ散歩 4 豊崎神社・難波長柄豊碕宮


孝徳天皇を主祭神とする神社で、社伝では正暦年間(990-995)に難波長柄豊碕宮の廃嘘地に建造されたとされています。
現在では法円坂で発見された前期難波宮跡が孝徳天皇の難波長柄豊碕宮だと特定されていますが、法円坂に存在した「上町説」と豊崎神社付近に存在したという「下町説」、さらに「垂水の庄から水を引いた」と古文書にあることから現在の新淀川右岸一帯に存在したという「宮原説」があり、いまでも謎の皇宮として話題に上ります。
境内には孝徳天皇の「沓脱(くつぬぎ)の石」があり、願いを叶える「ー願岩」といわれています。

中津 スポット情報 大阪メトロ散歩 5 南浜墓地

源光寺の寺伝には「聖武帝天平勝賓年中、大僧正行基三昧火坑を始むるの古蹟なり。今濱の墓所と云ふ」と記され、南浜墓地がわが国最初の火葬所・墓所であるとされています。
江戸時代に「大坂七墓」 と呼ばれた濱(南浜)・梅田・葭原(よしはら)・千日‘ 蒲生・小橋(おばせ)・鳶田(とびた)のひとつで、現存するのは南浜と蒲生のみです。
六地蔵には貞享 4年(1687)の記銘があります。

中津 スポット情報 大阪メトロ散歩 6 源光寺

寺伝によれば、入江長者が娘の病を治癒した行基菩薩に土地を寄進し、 天平19年(747)に聖武天皇の勅願寺として行基が開山したとされています。
創建時は七堂伽藍がそろった大寺院でしたが、やがて衰退し、 のちに法然上人が行基ゆかりの寺の荒廃を嘆き、源光寺と名づけて浄土宗の寺院として再興しました。

中津 スポット情報 大阪メトロ散歩 長堀橋 船場と島之内、長堀川沿いに東へ西へ

江戸時代に東横堀川から木津川へ東西に掘られた川が長堀川で、北側が船場で南側が島之内。船場で商いに励む商人たちが長堀川をミナミへ渡ると、 職人街の向こうににぎやかに音曲がはじける茶屋街がありました。



1 長堀石濱(モニュメント)

江戸時代、長堀川から大坂市中へ諸国の物産が陸揚げされました。
心斎橋西側の佐野屋橋あたりには石屋が集まり、摂津の御影石、播磨の立山石、泉州の和泉石、紀伊の大崎石などが山積みされ、石灯龍や石鳥居、石臼、水鉢などが売られて、石屋浜と呼ばれました。モニュメントがクリスタ長堀東端にあります。

長堀橋 スポット情報 大阪メトロ散歩 2 長堀川・長堀橋記念碑

伏見から移住した岡田新三(心斎)、三栖(みすの)清兵衛、池田屋次郎兵衛などの商人が、寛永2年(1625)に小川を拡幅して東横堀川と木津川を直結する長堀川を掘削し、海から船場南部への物流が容易になって、川筋に住友の銅吹所、石屋浜、材木浜が連なっていました。
明治になって役割を終えて、戦後の道路整備で次第に埋め立てられました。
江戸時代に長堀川に最初に架けられた橋が堺筋の長堀橋で、記念碑が建てられています。

長堀橋 スポット情報 大阪メトロ散歩 3 油掛地蔵尊

戦災で焼失した明善寺の境内にあった地蔵尊が焼け残りました。
地蔵尊を信仰していた遊女が抱え主から体に油を注がれて折橿(せっかん)されたときに身代わりになってくれたという話、地蔵尊に油をかけたら子どもの病気が治癒したという話などが油かけのいわれとして語られています。
長年の油かけで黒光りしていますが、いまは油かけをせずに祈ります。

長堀橋 スポット情報 大阪メトロ散歩 4 板屋橋跡パネル

ここに架かっていた橋は元禄の頃から新橋と呼ばれていましたが、幕末になって板屋橋と呼ばれるようになりました。
川沿いに板材を扱う店が集まっていたのかもしれません。
歩道に顕彰パネルが立っています。

長堀橋 スポット情報 大阪メトロ散歩 5 島之内・鰻谷

島之内は長堀川と道頓堀川、東・西横堀川に囲まれた場所です。
長堀川沿いには河川物流を利用した職人街が形成されましたが、南部は道頓堀の芝居街の影響を受けて茶屋が軒を連ね、船場の「商いどころ」島之内の「粋(すい)どころ」といわれました。鰻谷は、『摂陽奇観』に鰻を連想させる細い谷間のような地形だったと書かれています。

長堀橋 スポット情報 大阪メトロ散歩 6 住友銅吹所跡

江戸時代、大坂の堀川沿いに多くの銅吹所(精錬工場)が集まり、 その中で最大規模を誇ったのが泉屋(住友家)で、高い技術を有して日本の約1/3の銅を精錬していました。
元和9年(1623)に内淡路町に銅吹所を開設。
その後、寛永13年(1636)にこの長堀に移転し、明治まで続きました。

長堀橋 スポット情報 大阪メトロ散歩 7 元住友家本邸内ビリヤード場

明治9年(1876)銅吹所廃止後に住友家の邸宅となり、明治12年(1879)には洋館や庭園がつくられ、ビリヤード場も建てられました。
擬洋風様式で、玄関のアーチや円柱は洋風ですが壁は土蔵造り、屋根は瓦葺きの和風です。

長堀橋 スポット情報 大阪メトロ散歩 8 中橋 9 三休橋

中橋は長堀橋と心斎橋の中間にあったことから名前がつきました。
南北の筋は中橋筋と呼ばれ、中橋の親柱が中央分離帯に据えられています。
また、長堀川に架かる心斎橋、中橋、長堀橋の人通りが混雑するので「3橋を休ませるために」架けられた橋を三休橋と呼んだそうです。

長堀橋 スポット情報 大阪メトロ散歩 10 心斎橋・心斎橋筋


心斎橋は、道頓堀川を開発した岡田心斎が架橋したといわれる橋で、当時は長さ35 m 、幅4mの木橋でした。
界隈は書店・出版業が並んで、井原西鶴『諸艶大鑑(しょえんおおかがみ)』、上田秋声『雨月物語』、頼山陽『日本外史』などのベストセラーが出版されています。
明治になってドイツから輸入した鉄橋になり、さらに石橋になりました。
現在の横断歩道には石橋時代のガス灯や石の欄干が復元されています。

長堀橋 スポット情報 大阪メトロ散歩 11 佐野屋橋跡パネル

ここには江戸時代初期から佐野屋橋という木橋が架かり、川沿いには各地の特産石が浜を埋め、石の灯能や石の狛犬、石臼なども並び、石屋浜と呼ばれていました。
顕彰パネルが長堀通歩道に立っています。

長堀橋 スポット情報 大阪メトロ散歩 SP難波 ぶらり関西歴史旅より イメージ01
地図 スポット情報 まち西大橋・堀江

1間長涯(はざまちょうがい)天文観測の地碑・西大橋名板


江戸時代初期に伏見の町人たちによって開削された長堀川は、昭和46年(1971)に埋め立てられ、道路の中央分離帯に 間長涯天文観測の地碑、富田屋橋の名板、 西大橋の名板があります。
間長涯(はざまちょうがい) (1756~1816) は、 富田屋橋北詰で、 十一屋(といちや) いう質屋を営む家に生まれた。
本名間重富(はざましげとみ)といい幼い頃から富田(とんだ)屋橋の上で星を眺めていた。
寛政7年(1795) 幕府の改暦(かいれき)にあたり高橋至時(たかはしよしとき)とともに出府(しゅっぷ)し、江戸浅草天文台で中国の 「暦象考成(れきしょうこうせい)」を基に3年で「寛政暦(かんせいれき)」 を完成させた。
その功により、幕府直参(ばくふじきさん)に取立てられる話があったが辞退し帰阪(きはん)。
その後、富田屋橋に英国製の観測機器を据え好きな天文観測に没頭した。
この時橋は通行止めとなるのですが、 堀江の住民で文句をいう者は1人もいなかった。
碑は昭和35年大阪市によって長堀川ほとりに建てられたが、 長堀川の埋め立てによりこの地に移された。

まち西大橋 富田屋橋

富田屋橋は、明暦3年(1657) から元禄元年(1688) の間に架けられたと思われており、当時土地の豪商、富田屋(とんだや)の屋号(やごう)にちなんで名付けられたとされている。
富田屋橋の橋上(きょうじょう)で、幕末の天文学者間長涯 (1756~1816) が天文観測をしたことは有名で、観測する時には一般の人を通行止めにしたと言われている。
大正5年2月には橋長(きょうちょう)44.6m、幅員4.5mの木製の橋に架け替えられた、 昭和2年8月に高欄(こうらん)、 照明灯などを鋼鉄製に取り替える改修が行われた。 その後、 昭和42年から同46年にかけて行われた四ツ橋から木津川間の西長堀川の埋め立てとともに、富田屋橋もその役目を終えた。

まち西大橋 2堀江遊郭

明暦元年(1655)、堀江新地に歌舞伎座が開業し、和光寺や阿弥陀池詣に人々が集まると「鷲屋」「小鳥屋」「鳩屋」などの茶屋が建てられ、これが堀江遊郭の起源です。
和光寺から西横堀まで、近接する幕府公認の新町遊郭を凌ぐほど賑わったそうです。
明治の頃には大阪の廓のなかで一番品位があるといわれました。
大阪大空襲で衰退して、昭和後期からは若者のおしゃれな街に姿を変えていきました。

まち西大橋 3勧進相撲興行の地碑

江戸時代初期、相撲興行は風紀を乱すという理由で幕府により禁止されていました。
しかし、 徐々に解禁され、元禄5年(1692)に、南堀江高臺橋(たかきやばし)橘通で大坂相撲の最初の興行が催されました。
高臺小学校跡には紀州藩邸がありました。

まち西大橋 4オレンジストリート

かつては橘通と呼ばれて、幕末の頃から家具屋が並ぶ「家具のまち」として知られていました。
現在は立花通と改称されて、通称をオレンジストリートと呼びます。

まち西大橋 5ミュゼ大阪跡(現南堀江高橋ビル)

アメリ力村開発の先駆者・日限萬里子(ひぎりまりこ)が堀江公園横に開店した力フェ「ミュゼ大阪」がきっかけとなって、家具店がアパレル店、雑貨店、力フェ、レストランへ次々に姿を変えて、おしゃれなまちに変貌しました。

まち西大橋 6堀江川跡碑・堀江新地


このあたりの湿地帯を開拓するために、元禄11年(1698)に河村瑞賢が堀江川を開削して堀江新地が造成されました。
仁徳天皇が開削したと記紀に書かれている「難波(なにわ)の堀江」から名づけられました。
新地開発にあたって、幕府は廻船の営業権発行や市場開設などの振興策をとり、さらに相撲、能、文楽の興行を許可し、遊郭を認可しました。
長堀川沿いの材木業、堀江川沿いの家具商や藍染業などで大いに賑わい、町人文化が花咲きました。
堀江川は昭和35年(1960)に埋め立てられて役目を閉じました。

まち西大橋 7パームス跡 (現浅尾ビル)

昭和52年(1977)、日限萬里子がこのビルの地下に「パームス・ディスコ」さらに1,2階にカフエとバーを開店して、大阪のディスコブームの火付け役、全国のカフェバーの先駆けとなりました

まち西大橋 8喫茶店「LOOP」跡(現RIVER WESTビル)・アメリ力村


昭和44年(1969)に、「アメリ力村のママ」と呼ばれた日限萬里子がここに喫茶店「LOOP」を開店しました。
当時の南炭屋町には材木業の倉庫が並んでいましたが、「LOOP」にサーフアーやデザイナーなどファッションに敏感な若者が集まり、周辺にアメリ力西海岸から持ち帰った古着やレコードなどの商店が増えました。
これがアメリカ村のはじまりです。

まち西大橋 9御津八幡宮

天平勝宝元年(749)大仏殿建立のために東大寺の守護神として宇佐八幡宮の神輿が難波の御津に上陸して、それを祀ったのが創始とされています。

まち西大橋 10大坂屋銅吹所跡

このあたりは炭屋町と呼ばれ、大坂屋銅吹所がありました。江戸時代初期に日本は世界有数の銅産国になり、主要な輸出品でした。銅の生産と流通を独占したのが長堀川沿いの大坂の銅吹商で、生産量は鰻谷(うなぎだに)の住友銅吹所が1位、炭屋町の大坂屋銅吹所が2位で、大坂屋は秋田の阿仁銅山からここまで銅鉱を運びました。

まち西大橋 スポット情報 SP西船場


①旧江戸堀川跡

昭和32年、埋め立てにより姿を消した江戸堀川沿いには旅館が多かった。 土佐堀のVIP専用の金森旅館。 美空ひばりも泊まった小西旅館。
地方からの商用客には出文。各種各様の旅館が並んでいた。 水上龍太郎の小説「大阪の宿」のモデルになっった「昭月」は土佐堀の青年学校前にあった

SP西船場 ②いちょう寺

真宗西本願寺派浄光寺の樹齢300年の銀杏は「お化け銀杏」と呼ばれ、若い男女が詣ると想いが叶うと信じられた。
参詣者が絶えず、夜店が出て「銀杏煎餅」「銀杏鰻頭」まで売り出された。
迷信打破のため町奉行所では伐れ、本山は伐るなで、困った寺は乳房に見えるこぶから切ろうとすると、 命令者・実行者に巣りがあるとした。
寺に住みつく狸は真夏の夜にはだんじり離子をするなど、おどろおどろしい話もビル化とともに消滅した。

SP西船場 ③種木橋と筋違橋

旧江戸堀川と西横堀刀に現在の阪神高速下)の合流点にあった橋では元は川幅が広く江戸堀川に架かっていた橋の中間から西横堀川を渡るようにT字型に橋があり、撞木に似ていたので糧木橋(しゅもくばし)となづけられた。
後に江戸堀川が狭められた関係で現在みられるような斜めの橋になり筋違橋(すじちがいばし)ができ、江戸堀川埋め立て後、 撞木橋はなくなった。

④京町堀

明治元年と明治36年の2回にわたり、明治天皇が船にて川ロに上陸されたこの京町通りを御通行された。
当時は市内を東西に大阪城まで行く主要道路であった。

SP西船場 ⑤頼山陽生誕地と子三樹三郎


「日本外史」を書いた熱血の漢詩人、山陽の父春水は私塾「青山社」を江戸堀川畔に開いていた。
水上に藤棚を張り出し、風雅を楽しむ生活の中で山陽が誕生した。
山陽の三男、三樹三郎は江戸堀川南岸で勉学の時を過ごした。
父の思想の過激な部分を受け継いで幕末に行動したことから安政の獄にとらえられ、江戸小塚が原で斬刑に処せられた。
西船場小学校には「先賢景仰碑」がある。
東江戸堀のこの付近には江戸時代に、頼山 陽・篠崎三島・同小竹 ・後藤松陰・並河寒泉 らの多くの有名な学者や文人らが生まれ、
または寄寓して活躍していた
まことに誇るべき 文化の地であった。 先賢景仰碑は藤沢章 の撰文でこれら先賢の 偉績を讃えている。

⑥六代目笑福亭松鶴誕生地

五代目笑福亭松鶴は京町堀に住んでいて、六代目笑福亭松鶴はここで生まれた。
「初天神」の、親をうろうろさせるやんちゃ小僧だったのではなかろうか。

SP西船場 ⑦地蔵盆

夏休みが終わる頃、地域の子どもたちの安全を祈願して、御地蔵さんの前に集まり、遊ぶ。ビルの街西船場には今も伝統民俗行事がある。

⑧長州大師・高野寺


明治13年、高野寺三蔵院を移し創建した寺で、縁日には夜店も出た。
明治20年、弘法大師が開いた綜芸種知院の名をいただいた。
昼間は女学校、夜は男子の学校が創設された。
同時期、土佐堀川船町ではミッションスクール梅花女学校が創設され式日には振り袖姿が闊歩した。

SP西船場 ⑨日本キリスト教大阪教会

明治2年アメリカから派遣された宣教師2人が川ロの自宅で伝導開始。
明治20年、文化財として伝わる教会堂を建てた。

⑩玉水町の名水玉乃井



金光教玉水教会の名に地名を伝えている。
名水の出る井戸として摂津名所図絵にも描かれている。

SP西船場 ⑪朝日新聞社創業の地

明治12年村山龍平社主によって現肥後橋センタービルの地に創業。
13年京町堀1丁目に、18年中之島に移転、今日に至る。

⑫長州藩蔵屋敷

大坂の陣後、基盤目状の道路と平行に水路が掘られ戦渦に追われた町民を呼び戻し、伏見からの移住者も受け入れて市街地復興がはかられた。
全国から集まる物産のため蔵屋敷が堀川沿いに造られたが、土佐堀沿いの長州藩蔵屋敷の名残は昭和中期まで見られた。

SP西船場 ⑬基督教青年会館(現YMCA)


明治19年、長州藩蔵屋敷跡に伝導・教育の拠点として、赤いパン瓦屋根、煉瓦造りで建設された。
講堂は、さまざまな分野の演説会に使用され明治初期の進歩的な運動史によく会場名が出る。

⑭旧京町堀川

旧京町堀川は元和元年京都伏見京町の町民の移住により開拓された川で、東は西横堀川、西は現在の江の子島にあった。
百間堀川までの川で山崎豊子さんの小説にも出てくる。

SP西船場 ⑮阪神高速起点の碑

阪神高速道路は昭和39年月にここより西横堀側沿って港町までの区間23.kmがはじめて開通しました。

⑯花ノ井



SP西船場

⑰高野連


SP西船場

⑱路地裏の地蔵尊




SP西船場

⑲常安橋




⑳Salireレストランサリーレ




SP西船場

㉑21土佐堀レトロビル



SP西船場 スポット情報 まち西長堀 阿弥陀池・和光寺

6世紀に仏教が伝来したとき、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が争って、
物部氏が百済渡来の我が国最初の仏像を「難波(なにわ)の堀江」に廃棄したと『日本書紀』にあります。
それがこの阿弥陀池とされています。
仏像は推古天皇10年 (602) に信濃の本田善光によって拾われて、
のちに善光寺に祀られました。
和光寺は元禄十一年(1698) 堀江新地開発のとき智善上人が建立した。
本尊は丈尺五寸 の金銅弥陀如来である。
境内の池から善光寺(長野) 本尊ともいわれる阿弥陀如来が 出現したことから、
通称阿弥陀池ともいわれ江戸時代から多くの人々に親しまれている。

木村蒹葭堂邸跡碑

木村蒹葭堂は、江戸時代中期の文人、画家、本草学者、蔵書家で、
北堀江の瓶橋(かめはし)北詰の造り酒屋の長子として生まれました。
書斎の庭に井戸を掘ったところ葦 (蒹葭) が出て、それを愛でて号としました。
幼少のころから好学多芸で、「蒹葭堂日記』によれば延べ9万人もの来客があり、
日本中の知識人が蒹葭堂を訪ねて大坂にやってきました。
膨大な蔵書は現在、内閣文庫に引き継がれています。

まち西長堀 土佐稲荷神社 岩崎彌太郎

土佐藩蔵屋敷が長堀川沿いのこの地にあり、
米、木材、鰹節、和紙、砂糖など土佐の特産物を扱っていました。
敷地内に稲荷神社があって、大坂町民にも 境内の桜見物が許されていました。
土佐の岩崎彌太郎が、廃藩置県のときに土佐藩の負債を肩代わりする条件で船3隻を入手して海運業を始めました。
明治6年(1873)に三菱商会を名乗り、それが三菱財閥の創業となりました。
このとき彌太郎は土佐主・山内家の三ツ柏紋と岩崎家の三階菱紋を合わせて三菱の社章をつくりした。
土佐稲荷神社の神紋のなかにも三菱が含まれています。

西長堀アパート • 司馬遼太郎

日本住宅公団 (現UR都市機構)の関西における高層住宅の第1号で、11 階建です。
作家の司馬遼太郎や作詞家の石浜恒夫らが入居していました。
司馬遼太郎は産経新聞連載の『竜馬がゆく』をここで 執筆しました。

まち西長堀 鰹座(かつおざ)橋跡

土佐橋、土佐殿橋とも呼ばれ、江戸時代 初期に架けられました。
北側には土佐名産の 鰹節を扱う問屋が集まり、 鰹座が形成されました。
薩摩、阿波、上総、陸奥などからの鰹節も 取引されたようです。
上総(かずさ:現在千葉県)
陸奥(みちのく:宮城県、岩手県、青森県)

玉造橋跡

ここに玉造橋がありました。
江戸時代の初めに大坂城玉造口の幕府与力・同心が増員のためにここへ移転させられたことで 名づけられました。

まち西長堀 伯楽橋


明治41年(1908)に市電専用橋として木津川に架けられた橋が伯楽橋です。 伯楽という伝説の島がここにあったということから 名づけられました。この地は木津川から運ばれる物資集散の要津(ようしん)でした。

大阪木材市売市場発祥の地

江戸時代初期に土佐藩の申請で、
当初は立売堀(いたちぼり)川に、土佐屋敷が白髪町に移転すると西長堀にも、
木材市場が許可され、 土佐、 日向、 紀州、 阿波、 尾張などの木材が集まりました。
以来、 西長堀川の浜では昭和に至るまでここで木材市が開かれていました。

まち西長堀 白髮橋跡碑

白髪橋は、寛永2年(1625) の長堀川開削から明暦元年(1655)の間に架けられたとされており、
白髪町(しらがまち)に架けられた橋として白髪橋と名付けられた。
「白川橋」 「阿弥陀橋(あみだばし)」 と呼ばれていたこともある。
「あみだ池筋」を通る市電の軌道敷設(きどうふせつ)のため、
大正8年4月には橋長45.7m、幅員 18.2mに掛け替えられ、
高欄(こうらん=擬宝珠)のデザインには葵の葉が採用され特徴ある景観が形成されていた。
白髪町の名前は、木材市場で土佐の白髪山の良材が取引されたことから 橋の名前になったという説と、
古代に大坂へ入港する新羅船が着岸していたので、
新羅が白髪に訛って白髪町や白髪橋に なったという説があります。

まち西長堀 スポット情報 まち西田辺 1奥田邸.クスノキの保存樹

猿山新田を開墾した奥田市兵衛の子孫の方が住まれています(非公開)。邸内には大阪市指定のクスノキの保存樹があり、外からうかがえます。新田の開墾時に防風のために森林を造成して「猿山の森」と呼ばれていたそうで、その森の名残である奥田邸裏の高さ23.5mの大木は大阪市保存樹の第1号となり、のちに前庭のクス ノキも保存樹に追加指定されました。

2猿山地蔵尊

寛文3年(1663)に南田辺村の奥田市兵衛が沼地を開墾して猿山新田とし、 新田に祀られた地蔵尊が伝えられています。大正14年(1925)に大阪市域に編入されるときに田辺町大字猿山から西田辺町に改称され、いまやこの地蔵尊だけが「猿山」を継承しています。

3長池公園

田辺地域に広がる農地に用水を供給する濯減池がこのあたりにはいくつもありましたが、都市化によって多くは埋め立てられました。長池もそのひとつで、南北に細長い溜め池でしたが、現在は中央部が埋め立てられて公園になっています。も とは北方の桃ケ池まで連なっていたようです。

4山阪神社

飛鳥時代、渡来系氏族の田辺氏がこのあたりを支配し、地名の田辺も田辺氏に由来するものです。 田辺氏が祖先神を祀ったのが山阪神社(江戸時代までは山坂神社)で、田辺神社とも呼ばれていました。創建時期は不明ですが、主祭神は天穂日命(あめのほのみこと)と相撲の神とされる野見宿禰命(のみのすくねのみこと)で、かつて境内で奉納相撲が行われ、境内にその名残の6個の力石が置かれています。

5難波大道跡

難波(なにわ)大道は『日本書紀』推古天皇21年(613)の条に「難波より京(みやこ)(飛鳥)に至る大道(おおち)を置く」とあるわが国最初の官道(国道)で、難波から南へ竹内(たけのうち)街道に接続して飛鳥まで通じていました。大 道の軌跡が法楽寺西門前の道です。

6法楽寺・田辺大根の碑

法楽寺は源平の戦乱で戦死した武士の霊を弔うために創建されたと伝わり、『平家物語』には平重盛が厚く信奉したと書かれています。真言宗の寺院で本殿には不動明王が祀られ、平成8年(1996)に落慶した三重塔には金剛界大日如来が記られています。境内には樹齢約800年のクスノキがあり、また田辺大根の碑があります。田辺大根は江戸時代から全国に知られたなにわ伝統野菜で、大正期に品種改良されて法楽寺の西横門付近で盛んに栽培されたことから横門大根ともいわれました。

7神馬塚(しんめつか)

住吉大社の神馬は、代々田辺で飼育されてきました。伝説によると神功皇后が朝鮮半島から持ち帰った白馬を住吉大社で飼育していましたが、馬は大社から逃げて田辺の地を好んだところから、田辺の住民が世話をすることになったそうです。戦前まで神馬は朝夕、田辺と住吉大社を往復していました。神馬塚はその馬のお墓です。

8下高野街道

平安時代に高野山詣でが盛んになると、 京から高野山に通じる主な街道として東・西・中・下の高野街道が生じました。天王寺から田辺を経由して現在の堺市北野田に通じる道が下高野街道で、狭山街道ともいわれ、田辺の人々には大切な生活道路でもありました。

9模擬原爆投下跡の碑 (恩楽寺)

終戦直前、長崎に投下された原爆と同じ型・重量で通常火薬を使用した5トンの巨大爆弾が、原爆投下の馴陳として日本各地で投下されました。このことが機密解除された米軍資料から明らかになり、昭和20年(1945)7月26日に田辺に投下されたことが判明しました。投下地は150mほど北ですが、恩楽寺正門に碑があります。

まち西田辺 スポット情報 野田阪神 1 石畳の路地

海老江7丁目の石畳路地は、大阪の住宅街では希少な光景になりました。
阪神国道(国道2号線)の路上を走っていた阪神電車国道線が昭和 50年(1975)に廃止されて、鉄道の敷石が住民の希望でここに敷設されました。

野田阪神 スポット情報 大阪メトロ散歩 2 大和田街道(梅田街道)

ここには江戸時代から尼崎の大物で中国街道に出合う道があり大和田道と呼ばれていました。
中津川では渡し船で渡河していましたが、明治41年 (1908)に開削された新淀川には長さ735mの鉄橋・西成大橋が架けられ、大和田街道(梅田街道)と呼ばれる幹線道路になりました。
西成大橋は大正15年(1926)に阪神国道の整備とともに淀川大橋に架け替えられ、同時に大和田街道の名は消えました。

野田阪神 スポット情報 大阪メトロ散歩 3 海老江八坂神社


祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)で牛頭天王社と呼ばれていましたが、明治の神仏分離令で八坂神社に改称されました。
境内の石灯寵に天治(1124-1126)の文字があることから平安時代後期には存在していた古社です。
明治期の関西俳壇の大御所一松瀬清々の句碑「菜の花のはじめや北に雪の山」と、西成大橋の親柱があります。

野田阪神 スポット情報 大阪メトロ散歩 4 疏奇紀恩(そがきおん)之碑(淀川改修記念碑)

かつての中津川は大きく蛇行する暴れ川で、氾濫を繰り返して住民を苦しめてきました。
明治18年(1885)には有史以来といわれる大洪水が発生し、さらに何度か洪水を連発して大阪は甚大な被害を受けました。
そこで新淀川の開削が計画され、明治29年 (1896)から大改修工事を開始して明治43年(1910)に完成しました。
このとき、 海老江村の北部90町余(90ha)もの土地が河底に沈みました。

野田阪神 スポット情報 大阪メトロ散歩 5 羽間(はざま)文庫(羽間邸)

地元で羽間文庫と呼ばれている旧家は、江戸幕府に仕えて伊能忠敬を指導した大坂の天文学者・間重富の子孫の邸宅です。
重富に関する文献・資料を収集して保存されていましたが、現在は大阪歴史博物館に寄贈されています。
住居ですから内部の見学はできません。

野田阪神 スポット情報 大阪メトロ散歩 6 江戸時代の道標

羽間邸前に江戸時代の道標があります。正面に「左・五百らかん(妙徳寺)了とくいん(了徳院)・大仁(大淀の大仁村)むめた(梅田)」と読め、右面は「右・藤名所(野田村の藤)ふ奈つハシ(船津橋)さこ者(雑喉場)左・奈かやま(中山寺)あま可さき(尼崎)」です。
この道が四方につながっていたことがわかります。

野田阪神 スポット情報 大阪メトロ散歩 7 南桂寺(なんけいじ)

明治の初め頃、住職が傷ついたホトトギスを手当てしたところ、非常に美しい声で鳴きだしたので噂になり、多くの人が見物に訪れました。
このホトトギスを盗もうとした者が、村人に見つかって争いになったあげくにホトトギスを殺してしまいました。
こうして「郭公(ほととぎす)塚」が造られ、羽根が現在も保存されているそうです。
南桂寺見学は予約が必要です。

野田阪神 スポット情報 大阪メトロ散歩 8 松瀬青々(せいせい)旧跡

関西の高浜虚子とまでいわれた俳人・松瀬青々は、壮年期にここに住んでいました。
青々は明治2年(1869)に船場で生まれ、呉服行商や銀行勤めを経て上京し、正岡子規の句誌『ホトトギス』の編集に携わりました。
帰阪して大阪朝日新聞で朝日俳壇を担当し、句誌『宝船』を主宰しました。
南桂寺境内に碑が建てられています。

野田阪神 スポット情報 大阪メトロ散歩 9 たかの巳社 10 朝日地蔵尊

江戸時代初期、このあたりは尼崎城主青山幸利が鷹狩をした原野で、ここに白蛇が棲みついていたので「たかの巳社」が造られたとされています。
朝日地蔵尊は出現したときに光り輝いていたという伝承から名づけられました。
近くに住んでいた松瀬青々が揮ごうしたという扁額(へんがく)がかかっています。

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