トップページへ

や・ら・わ


地図 スポット情報 スポット情報(か)

SP亀岡街道

SP蒲生四丁目

北加賀屋

SP北花田

まち北浜

SP京橋

SP京街道

SP喜連瓜破

まち喜連瓜破

まち九条

SP熊野街道

SP暗越奈良街道

まちコスモスクエア

SP駒川中野

スポ イメージ01
地図 スポット情報 まちさんぽ蒲生四丁目
SP蒲生四丁目

1.がもよんにぎわいプロジェクト



蒲生四丁目駅周辺は通称「がもよん」と呼ばれて、戦前に建てられて戦火を免れた長屋・古民家が多く残って独特の情緒を漂わせています。
「がもよんにぎわいプロジェクト」は下町風情や古い町並みを生かしつつ、古民家を飲食店や雑貨屋などに再生するプロジェクトです。
すでに30数軒の店舗がおしゃれな空間をつくりだし「2000世帯以上の住民が流入した」と評価されて、公的資金に頼らない都市再生の「がもよんモデル」として注目されています。

2.蒲生村・蒲穂のゆかりの地パネル


すぐ南に流れる鯰江川の右岸に沿って形成された集落が蒲生村で、川の周囲は低湿地なので村は一段高い蒲生堤の上に開けました。
井路川が縦横に走った水郷農村で、特産品は湿地に育つ良質の蒲。
蒲穂は火傷薬や蒲団の材料に用いられ、蒲生の地名もここから生じたとされています。

3.若宮八幡大神宮・大坂冬の陣・佐竹義宣(よしのぶ)本陣跡碑



若宮八幡は仁徳天皇を祭神として、社殿が西向きなので西向八幡とも呼ばれています。
大坂冬の陣では、徳川家康は大坂城を攻略しようとここへ佐竹義宣(よしのぶ)軍1,500の兵を送りました。
迎え撃つ豊臣軍は蒲生堤の3カ所を切断し、4重の柵を設け、さらに淀川を決壊させてあたりを2mほど水没させ、矢野正倫(まさとも)と飯田家貞がそれぞれ 300の兵で応戦しました。
慶長19年(1614) 11月26日夜明け、若宮八幡に本陣を構えた佐竹軍が攻撃を開始し、堤上の柵を次々に撃破して、防戦一方になった矢野と飯田はあえなく討死しました。
そこへ豊臣軍は木村重成が大坂城から出撃して戦況は謬着状態になり、さらに後藤基次が参戦して佐竹軍を押し戻した。
佐竹義宣は大和川対岸の鴫野で戦っていた上杉勢に救援を求め、戦闘は激しさを増しつつ次第に徳川軍の優勢に傾き、豊臣軍は大坂城へ撤退しました。

4.蒲生行者講


行者講とは、奈良県の大峰山で厳しい修行を行う信仰者の集まりで、 江戸時代に蒲生行者講がうまれました。
ここに祀られている不動明王、役行者(えんのぎょうじゃ)、弘法大師像は大正末期頃から記られて、まちの守護神としていまでも篤く信仰されています。

5.鯰江(なまずえ)川跡・三郷(さんごう)橋丸木舟出土跡


鯰江川は、北河内の低湿地帯に滞留する悪水を排除するために、江戸時代以前に掘られた堀川で、名前は鯰が多く棲んでいたからといわれています。
近隣農村の井路川が三郷橋(今福交番付近)で合流して鯰江川となり、最大川幅30mで寝屋川にほぼ並行して流れ、天満橋の手前で大川に注いでいましたが、昭和5年(1930)の、寝屋川の改修で埋め立てられました。
大正6年(1917)、三郷橋近くの川底から、古代人が水運に用いたとされるクスノキをくりぬいた丸木舟が発掘されました。

6.古堤(ふるつつみ)街道(大和街道)


鯰江川の堤防上の道が古堤街道で、大和道・野崎道とも呼ばれて大坂と奈良を結ぶ幹線道路でした。
野崎観音詣でに土手道を行く人と川を船で行く人が掛け合う上方落語がよく知られています。
街道筋を歩くと、埋め立てられた鯰江川跡の道路が堤防上の街道より階段状に低くなっていることがわかります。

7.蒲生橋親柱


京橋駅寄りに、総江川に架かっていた蒲生橋の親柱も残っています。

8.蒲生墓


大坂の陣後に荒廃した大坂の復興事業が実施され、そのひとつに市内に散在していた墓地を整理集約する施策がありました。
大坂七墓がこうして生まれ、大坂庶民のあいだに七墓参りが流行しました。
七墓とは、千日前・小橋・梅田・濱・葭原(よしわら)・鳶田(とびた)と蒲生で、蒲生と濱の墓地が現存しています。

9.道標



そもそもは古堤街道と京街道の分岐点に建てられた江戸時代の道標で、京阪モール建設のときにこの地に移転しました。
「右大和ならのざき」 「左京みち」と刻まれています。

SP蒲生四丁目 イメージ01
yim coffee and craft イメージ01 そば 冷泉 イメージ01 IL CONTINUO イメージ01
地図 スポット情報 北加賀屋 イメージ01
加賀屋新田から造船のまちへ、そしてアートのまち へ

北加賀屋は木津川の河口に位置して、江戸時代には新田が開拓された豊かな農村地帯。やがて近代日本を牽引した造船業が立地し、いまも重要なエ業拠点になっています。造船所跡地は現代アートの基地へ、まちの変身も始まっています。

北加賀屋とは

造船の町として栄え、多くの大工が住んでいた北加賀屋には、奔放な増築が施された家ちらほら。この面白みを生かした複合施設「千鳥文化」は今年5周年を迎え、ますます賑やかに。ギャラリーや名物になりつつあるウォールアートも増え、クリエーターが集まる街として進化を続けている

1加賀屋天満宮


宝永元年(1704)に大和川の流れが大阪湾に向かって付け替えられ、それ以後、河口付近に堆積した土砂を利用して新田の開発が進みました。
この天満宮は天王寺村天下茶屋の柴谷利兵衛が新田開発にあたって鎮守のために勧請したものです。
当初は木津川寄りの柴谷町にあり、造船所建設のために一時廃絶していましたが、戦後になって現在地に再建されました。

2名村造船所跡地・クリエイティブセンター大阪



第一次世界大戦を機に世界的に造船需要が高まり、木津川沿いに多数の造船所が建設されました。
名村造船所は明治末期に創業し、昭和初期にこの地に大規模工場を構え、現在は佐賀県伊万里市に移転しています。
大阪工場跡地は国指定の近代化産業遺産となり、修理用ドックや原図室などが保存され、また「クリエイティブセンター大阪」 (CC0)としてライブなどを行うアート複合スペースになっています。
毎月1回、見学ツアーが開催されています(【問い合わせ】06-4702-7085)。
正門前の道路に面した白馬荘・乗鞍荘・穂高荘は、かつて名村造船所に働いていた人たちが寝泊まりしていたアパートです。

3ナニワ企業団地(第2団地)


津守にある第1団地とともに240社に及ぶ製導、加工、建設業の中小企業が集まって共同受注や「団地内横受け」を実現している工業団地です。
中小企業目らが土地を取得して作りあげた他に例のない団地で、エ場が響かせる機械音や行き交うトラックに大阪がいまに受け継ぐ近代工業の息吹を感じます。

藤永田造船所跡地


元禄の頃に「兵庫屋」として堂島で紀州藩船の建造を請け負った歴史を持つ日本最古の造船所・藤永田造船所は、大正6年(1917)にこの地に大規模な近代工場を建設しました。
海軍指定工場となって「駆逐艦の藤永田」と呼ばれ、戦後はLPG船や民間船、鉄道車両の建造も手がけてきましたが、造船不況の影響で昭和42年(1967)に三井造船と合併しました。

5加賀屋新田・井路川水路顕彰碑


加賀屋甚兵衛は大坂淡路町の両替商「加賀屋」に奉公人として仕え、やがて暖簾分けを許された商人です。
河内の旧大和川沿いの新田開発が次々に成功しているのを知って、新大和川河口砂州の開発に着手し、23年の歳月をかけて北島新田を開発しました。
さらに北方の住吉川周辺の砂州に新田開発を企図し、 10年をかけて6町歩(6 ha)あまりの開発に成功しました。
宝暦4年(1754)の検地で加賀屋新田と名付けられ、その後も当主たちが開発を受け継ぎ、幕末の天保15年(1843)には105 町歩(105ha) の西大坂最大の新田になりました。
大和川から木津川にかけての広大な土地は加賀屋一族が造成した土地です。
甚兵衛が晩年を過ごした新田会所屋敷が南加賀屋にあります。
新田を縦横に流れていた農業・生活水路を井路川と呼びますが、大和川や十三間川(じゅうさんげんぼりがわ)を水源として、戦後しばらくまでこの地に見られました。

6アートのまち・北加賀屋





名村造船所大阪工場跡地を 「アートの発信地」として活用する動きが生まれ、北加賀屋―帯を芸術や文化の集まるまちとして、点在する空き家を作品制作の場やギャラリーとして再生し、アート、演劇、ダンス、音楽、建築など、多種多様なアーティストやクリエイターが活動しています。まちなかに点在するウォールアートを楽しんでください。

      

千鳥文化


      

まるた食堂


みんなのうえん


地図 スポット情報 北加賀屋 SP北花田 無印良品イオンモール北花田
     
地図 スポット情報 まち北浜 大阪取引所

難波橋
花外楼

今橋

高麗橋
近代建築群

旧小西家

13.旧小西家住宅 (きゆうこにしけじゆうたく)中央区道修町一丁目 [国の重要文化財 ]
>
空襲で木造の商店が並ぶ船場の町並みは姿を消し、今は近代的なビル街に変身してしまった。
そんな中で往時のたたずまいをそのまま残しているのが旧小西家住宅で、昔の船場の雰囲気が偲ばれる。
[土蔵造りの3階建て表屋造り]
イメージ01
表屋造りは、道路に面してオモテに店、中庭を介してオクに住居。
その外装から「烏御殿」との別称もある大きな商家建築。
大通りから見える黒々とした外観は、もともとは隣接する幹線道路である堺筋拡幅の際に建物を一部取り壊し、補修した際に施されたもので、この建物がもともと持っていた意匠ではない。
登録文化財の過程を経て現在は重要文化財に指定されている。
大阪商家を代表する近代和風建築で、都市の中心部にある姿には、大阪の誇りと美学を感じる。
イメージ01
明治2年(1869)製薬業として創業したが、明治17年(1884)アサヒビールの源流である「アサヒ印ビール」を製造・販売。サントリーの創業者・鳥井信治郎も丁稚としてここで働き、酒の取り扱いについて学んだ。
現在は「アロンアルファ」や「ボンド」で有名な接着剤と化成品事業の会社『コニシ』の社屋。
旧社名は小西儀助商店だったが、昭和51年(1976)に現社名の『コニシ』に改称した。
明治36年(1903)築、[国の重要文化財]

【旧小西家住宅史料館】

イメージ01
住所
大阪市中央区道修町1丁目6番9号
入館料 無料
電話番号 06-6228-2847(コニシ株式会社 総務部
受付時間 10:00 ? 12:00、13:00 ? 17:00
(土日祝・夏季休暇・年末年始は除く)
アクセス
◆大阪メトロ 堺筋線「北浜駅」5番出口より徒歩約1分
◆京阪電車
京阪本線「北浜駅」27番出口より徒歩約6分


道修町

旧鴻池本宅跡碑


地図 スポット情報 SP京橋 藤田美術館      
           
     
     
     

地図 スポット情報 SP京街道      
     
地図 スポット情報 SP喜連瓜破 MAP(お店) 喜連瓜破 駒川中野 平野
SP喜連瓜破        屋敷小路

       カフェ サクエバ
       小田舎料理店
       式内盾原神社(しきないたてはらじんじゃ)
       ボンハンバーガー
       ラテン居酒屋ソルーナ
まち喜連瓜破
地図 スポット情報 まち九条


1九島院(きゅうとういん)

もともこの地にあった草庵に禅僧・拙道が迎えられ、黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院として開設されました。
入仏開堂の法要に龍渓(りゅうけい)禅師を招いたとき、台風と大津波が来襲しましたが、
禅師は沈着冷静、「生死は数なり」と一偈(いちげ)を書いて、坐禅不動、海水中に入寂(にゅうじゃく)されました。この「龍渓禅師の人柱」 は、河村瑞賢が安治川を開削する動機になったともいわれています。

まち九条

A 松島橋の碑




かつては寺島と呼ばれ、木津川と尻無川との合流地点であるので、舟大工職人が数多く住んでいました。明治元年(1868)に町名をつけるさいに、島北端の戎社に推定樹齢300年の「えびす松」があって景勝地として有名であったため、そこから松島と名づけられました。明治初めには川口に外国人居留地が造られ、松島はその遊興地として開発。大阪最大の遊所・松島遊郭が開かれ、のちには松島文楽座 も出来て殷賑を極めました。明治2年(1869)に松島橋が架橋され、大きな反橋(船を通すため)で有名になり、初代長谷川貞信の『浪花百景』にも描かれましたが、残念なことに明治18年(1885)の淀川大洪水で流出してしまいました。現在の橋は昭和5年(1930)に架けられたものです。

まち九条

2梅本橋顕彰碑・尻無川

大正期までここに木津川から分流した尻無川が南へ流れていましたが川幅拡張工事にともなって大正橋のところで木津川に直結させ、
このあたりは戦後に埋め立てられました。旧尻無川と木津川に挟まれた寺島につくられたのが松島新地で、
梅本橋で川口の外国人居留地と結ばれていました。
文明開化の大阪の新名所になりました

まち九条

3竹林寺(朝鮮通信使の墓)

九条島で新田開発をした香西晳雲(こうさいしょううん)と池山新兵衛が建てました。
大坂で亡くなった朝鮮通信使・金漢重(キムハンジュン)の墓があります。
朝鮮通信使は徳川将軍が代替わりしたときに来日した友好親善使節団で、
書記、医師、僧侶など時には500名以上になる大集団で、徳川幕府は手厚く処遇をなし、異国情緒あふれる行列は見物人でお祭り騒ぎになりました。
釜山から来航して大坂で上陸した金漢重は、病に臥し、宿舎であった竹林寺で亡くなりました。

まち九条

朝鮮通信使の碑

② 九条島と朝鮮通信使の碑 淀川や大和川河口に形成された砂堆は大小の島々となって難波八十島と呼ばれ、九条島もそのうちの1つです。
元は「衢壌島」(くじょうじま)と書き、儒学者・林羅山が命名したといいます。
「衢(ちまた)」は賑やかな町を「壌」(じょう)は豊かな土地を意味しています。
朝鮮通信使は徳川将軍が代替わりした時などに朝鮮から日本へやって来た友好親善の使節で、江戸時代には計12回来日しています。
正使と副使の他に書記、通訳、書家、画家、僧侶、医師など、時には500名以上にもなる大集団でした。
異国情緒溢れる通信使が来訪すると、大坂三郷はおろか近隣からも見物者が訪れ、大坂中がお祭騒ぎになったといいます。
彼らは釜山を出港して対馬、瀬戸内海、九条島を通って川口で船を降り、そこから川御座船に乗り換えて淀へ向かい、淀からは陸路で江戸に向かいました。 まち九条

4大阪市電創業の地碑

明治36年(1903)に、文明開化に賑わう九条新道の花園橋から完成した築港大桟橋へ約5km、大阪市電が開通しました。
公営による電車路線は日本最初の快挙で、翌年には上部にデッキがついた「2階付き電車」が走りました。
築港大桟橋は大阪の観光名所になり、市電は夏の「納涼電車」冬は「魚釣り電車」と呼ばれて人気をよびました。
大阪市電は自動車化の波に押されて昭和44年(1969)に歴史を終えるまでの66年間、大阪市民の足を支えました。

まち九条

5茨(いばら)住吉神社

池山新兵衛が新田と河川の守護神として創建したとされています。
社名は、茨が群生していたという説や摂津菟原郡(うばらぐん)から分詞したので菟原が茨(いばら)になったという説があります。
ご神木の「焼け楠」は、樹齢約700 年とされたクスノキが空襲で焼け、大切に保存されているものです。

まち九条

6 ナインモール九条商店街


約300m、100店舗の商店街で、近鉄バフアローズ(当時)が大阪ドームをフランチャイズ球場にしてから 「バファロード」と呼ばれることもあります。
大阪の映画マニアの拠点のひとつ 「シネ・ヌーヴォ」が近くにあります。

まち九条

7キララ九条商店街


明治25年(1892)頃から続く約 600m. 150店舗の商店街で、そもそもは九条新道と呼ばれる大通りでした。戦前まで芝居小屋、寄席演芸場、映画館が10軒余りもあって、松島新地とあわせて庶民の遊興地として大いに賑わい、「西の心斎橋」とまで呼ばれました。「キララ」という愛称はアーケード改築のときに―般公募で選ばれました。

まち九条

安治川トンネル


安治川では、江戸時代に樽廻船(たるかいせん)、菱垣廻船(ひがきかいせん)などの大型帆船が運航し、
明治には大型の外国船が行き通い、
昭和になっても大阪中央卸売市場への大型貨物船の航路となって架橋が困難でした。
かつてはこの場所に源兵衛渡しがありましたが、昭和19年(1944)に日本最初の川底トンネルが掘られ、世界的にも珍しい車両用エレべーターが設置されました。
1日に 1200台もの自動車が通行しましたが、安治川大橋が架橋されたのちは、車両用のトンネルは閉鎖され、現在は人と自転車のみが利用可能となっています。

地図 スポット情報 まち九条 SP熊野街道      
     
地図 スポット情報 SP暗越奈良街道      
     
地図 スポット情報 まちコスモスクエア
       咲州キャナル

       大阪港国際ターミナル
       シーサイドコスモ

ここからは雄大な景色が遠望できます。
対岸の港区・天保山には観覧車と斜張橋の天保山大橋や海遊館 が見えます。
金色の帽子を被った白と青の2本の塔は
大阪市環境局の舞洲工場とスラッジセンター (下水 汚泥処理場) の煙突です。
クレーンの向こうに見える白いアーチ橋は此花区北港の舞洲と夢洲を結ぶ夢舞大橋、
東方には巨大な赤い橋梁の港大橋が見えます。
眼前の海が大阪港の主要水路で、西方の港口では赤い灯台と白い灯台が次々に通過する船舶を迎えます。
ここは太古の住吉浦にあたり、
遠くに六甲の 山影を望む歌枕 (歌に詠まれる名所)で、
「住の江の岸による浪よるさへや 夢の通ひ路人目よくらむ」
(『古今集』 藤原敏行朝臣)ほか多くの和歌に詠まれてきました。
戦国時代には信長の鉄甲船と毛利水軍が 激突し (木津川口の戦い)、
江戸時代には天保山沖が 「出船千艘、 入船千艘」といわれるほど多くの廻船で 賑わいました
。現在、海釣りに開放されている岸壁もあり、釣り人が糸を垂れています。


       古代船なみはや
       夢咲トンネル
       大関門・赤灯台・白灯台


地図 スポット情報 スポット駒川中野 MAP(お店) 喜連瓜破 駒川中野 平野
       酒処 和屋
       洋食うめの
       本のお店 スタントン
       カフェ ルーフ
       デリカ天寅前通店

地図 スポット情報
トップページへ