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まち桜川

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四天王寺

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まち新町

住吉東

まち桜川 SP桜川 道頓堀川・西道頓堀橋・なにわ筋
堀江・立花通
住吉橋

幸橋
赤手拭稲荷神社

あみだ池筋
汐見橋
日吉橋・道頓堀川水門

桜川筋

y tacosイータコス

まちさんぽ鴫野

室町時代の初め、鴫野村の何人もの村人たちが
「吾は熱田の神なり。吾を淀川の川辺に迎うべし」と
老翁が告げたという同じ夢をみました。
村人たちが川辺に出てみると一匹の小蛇(白鳥説もあり)が現れて悠然と鴫野村へ村人を導きました。
村人たちは畏敬して祠を建てたというのが神社の起源とされています。
境内に は、冬の陣で鴫野を占領した徳川方・上杉景勝の陣跡の碑があります。
家康は兵を休ませようとして景勝に堀尾忠晴と交代を命 じましたが、
景勝は「手に入れた地を他者に譲ることはできない」 と頑強に拒否したといわれています。












地図 スポット情報 スポット四天王寺       天王寺蕪  四天王寺




天王寺七名水 夕日の名所 夕陽丘



地図 駅名 スポット情報 昭和町
まちさんぽ昭和町        1日本基督教団大阪教会

南大阪教会は大正15年(1926)に設立された日本基督教団に所属するプロテスタントの教会です。昭和3年(1928)に建築家・村野藤吾の処女作となる旧礼拝堂と教会塔が完成しました。旧会堂は痛みが激しくなって取り壊され、昭和56年(1981)に新しく建築された会堂は、村野藤吾による晩年の傑作といわれています。

       2阪田寛夫「サッちゃん」詩碑

南大阪教会に付属する南大阪幼稚園の2期生であった阪田寛夫が作詞した童謡「サッちゃん」の詩碑が園の東南部にあります。芥川賞作家である阪田寛夫は大正14年(1925)に大阪で生まれ、幼稚園での「ー級上の女児」の思い出をもとにこの詩を書いたと話しています。昭和の幼児はだれもが「バナナがだいすき」でした。

昭和町        3庚申街道

庚申信仰の発祥地・四天王寺庚申堂への参詣道で、一般的には四天王寺南大門前から田辺を通って平野区長吉に至るルートを庚申街道といいますが、四天王寺南大門からJR天王寺駅を南下し、南大阪教会東側の道路を長居へ向かう道路も、地元では庚申街道と呼んでいます。

昭和町        4寺西家住宅・蔵

住宅は大正15年(1926)、土蔵は昭和10年(1935)に建築されました。 和風の玄関横に洋風の応接間が併設された当時の典型的な建築様式です。屋根に洋瓦が葺かれ、各部屋は独立して中廊下が走り、大正時代のデモクラシーの気風がうかがえます。区画整理事業の最中の建築で、躍進する大阪の気概が表れています。主屋・蔵ともに平成17 年(2005)に国の登録有形文化財になっています。

昭和町        5寺西家阿倍野長屋

昭和7年(1932)建築の4戸1棟の長屋で、平成15年(2003)に長屋では全国初の国の登録有形文化財に登録され、翌年に外観を修復しました。2戸ごとに仕切る防火壁が屋根より高く、袖壁がついています。各戸ごとに木戸門があり、背面側に坪庭があります。建築当初は1階に玄関、茶の間、和室、 台所、ガス設備のある風呂、便所があり、2階には和室2室がありました。

昭和町        6阪南町・昭和町界隈の 「大阪近代長屋」



大阪の人口が爆発的に増加した時期に、大阪市は住宅需要に応えて、門構え、塀、前裁、2階座敷と縁側を持つ、英国のテラスハウスをイメージした「大阪長屋」といわれる邸宅風の近代長屋を、洋風・和風・和洋折衷で建設を進めました。阪南町・昭和町界隈にはこのような近代長屋の原型を受け継いだ住宅建築がそこかしこに残されて、貴重な近代化史料としてコースの左右に多く見かけることができます。

昭和町        7北畠住宅

大正末期からの区画整理事業のー環として、大阪市が15年割賦で売り出した分譲住宅が北畠住宅です。このあたりは大正時代には桐山と呼ばれる森林で、周辺より先んじて近代住宅地として造成されました。その頃の面影をとどめるように南北の住宅地内街路が未舗装のまま残されています

昭和町        8桃ケ池・股ケ池(ももがいけ)明神

桃ケ池は古代から農地に水を供給する濯減用の池でした。大蛇(おろち)が棲みついて農民を苦しめたので、聖徳太子が使者を送って退治したという桃ケ池伝説があります。股ケ池明神は、その大蛇の霊を鎮めるために「おろち塚」が造られたのが起源とされています。

地図 駅名 スポット情報 昭和町 心斎橋
まちさんぽ心斎橋・四ツ橋
スポット心斎橋・四ツ橋        船場裏路地



       船場山本


       焼鳥サイヒ

       鮨とよたか

大阪産料理 空
大阪ぐりぐりマルシェ まちさんぽ心斎橋・四ツ橋 順慶町の夜店

(心斎橋筋商店街発祥の地) 江戸時代中期には、新町に向かう順慶町通りに
、堺筋から新町橋まで夜店が連なって大坂名物になっていました。
その順慶町通と心斎橋筋が交差するところから賑わいが南へ、 芝居小屋へ延びて、現在の心斎橋筋商店街へ発展していきました。

橋本宗吉絲漢堂(しかんどう)跡碑

橋本宗吉は江戸中期の人で、傘屋の貧しい紋描き職人でしたが、エレキテル(電気)の実験などで才能を発揮し、
天文学者・間(はざま)長涯の援助で江戸に出て大槻玄沢に師事して蘭語を学びました。
帰坂後は医業を開き、また関西最初の蘭学塾・絲漢堂をここに開きました。
弟子には中天游(てんゆう)、その門下には緒方洪庵、
その塾生には福沢諭吉と、大坂での学問の道を切り開いた先駆者です。

丼池筋(どぶいけすじ)

心斎橋筋のー本東で、江戸時代は家具や小間物問屋が集まっていましたが、戦後は繊維問屋街として現金取引の卸小売で全国に名を馳せました。
現在は都市再開発の流れを受けて商店が船場センタービルへ移転するなど、激しく変容しています。

心斎橋

元和8年(1622)に長堀川開削の中心を担った伏見の商人・岡田心斎が架橋しました。
幅2間半(約4m)の木橋でしたが、 明治6年(1873)にドイツ輸入の鉄橋にかわり、さらに明治42年(1909)には石橋になってガス灯が灯されました。
昭和39年(1964)の長堀川埋め立てで歩道橋になり、いまは平面の横断歩道になっています。
石橋の欄干やガス灯が復元されて面影を伝えています。
鉄橋は鶴見緑地へ移設され緑地西橋に付設されています。

大丸心斎橋店(本館)

享保11年(1726)に「松屋呉服店」として開店しました。
創業者・下村彦右衛門正啓(しょうけい)は「先義後利」を家訓とし、 貧民に食料や衣服を分け与えるなど慈善家としての評判も高く、
幕末の大塩平八郎の乱でも「大丸は義商なり」と焼き討ちを免れました。
本館は W.M.ヴォーリズが設計し、改装後も天井や柱にヴォーリズのデザインがそのまま継承されていて、
百貨店建築の傑作として評価されています。

三津寺

天平16年(744)に聖武天皇の勅命により行基菩薩が開基したと伝わっています。
このあたりは『日本書紀』や『万葉集』に「御津」と書かれた海岸でした。
令和5年 (2023)の秋に全面改築を経て本堂がホテルと一体となる変貌を遂げました(12月4日拝観再開)。

道頓堀.戎橋

道頓堀は、慶長17年(1612)に安井(成安)道頓(どうとん)・安井道ト(どうぼく)らが私財を投じて東西横堀川をつないで開削した堀川です。
その功績により大坂城主・松平忠明(ただあきら)が道頓堀と名づけたとされています。
戎橋は今宮戎神社の参道に道頓堀の開削と同時に架橋されました。
道頓・道トの紀功碑が日本橋北詰にあります。

太左衛門橋・相合橋・とんぼりリバーウォーク

太左衛門橋は東南角に芝居小屋を開所した大坂太左衛門の名前が由来です。
相合橋は川北の花街・宗右衛門町(そうえもん)に遊ぶ男女にちなんで名前が生じたとされますが、
縁切橋ともいわれて遊里の人々は渡橋を嫌ったそうです。
このあたり一帯の道頓堀川沿岸に約2kmの遊歩道‘とんぼりリバーウォークが設置され、
新しい大阪名所になっています。

道頓堀5座

道頓堀の通りは、寛永3年(1626)に幕府より 芝居および遊所の設置が許可されてから関西を代表する繁華街として発展しました。
竹本座(のち浪花座)、中座、角座、朝日座、弁天座は櫓(やぐら)をあげた幕府公認の芝居小屋で、
道頓堀5座と呼ばれ、通りは櫓(やぐら)町と称されました。
歌舞伎、人形浄瑠璃、からくり芝居などが演じられ、
元禄12 年(1699)には、通りに「いろは47軒」の水茶屋が許可されて「くいだおれ」の食文化も生まれました。

地図 スポット情報 新大阪 1 御堂筋線新大阪駅トレインビュースポット

東京オリンピックの開催に合わせて東海道新幹線の新大阪駅が昭和39年(1964)10月1日に開業し、
それに先立って御堂筋線新大阪駅が9月24日に開業しました。
プラットホーム北寄り(江坂方)にトレインビュースポットがあり、
テーブルでくつろぎながら発車・到着する電車や引き上げ線に停まる電車を眺めることができます。

2さいの木神社 3 西尾六右衛門の墓

北中島の3人の庄屋、山口村・西尾六右衛門、北大道村・澤田久左衛門、新家村・ー柳(いちりゅう)太郎兵衛は名を連ねて、
悪水を抜く治水工事を幕府に嘆願しました。
一旦はエ事許可が下りましたが費用は全額百姓持ちとされ、
幕府負担を願い出ると許可が取り消され、
延宝6年(1678)、庄屋たちは村々の農民を率いて無許可工事の断行を決意しました。
22か村の農民が不眠不休で労役をささげ、
大坂湾口までの9.5km、幅22mの中島大水道を50日ほどで完成させたのです。
しかし、幕府無許可の禁を破る重罪を犯した3人の庄屋は、
細目木(さいのき)と呼ばれていたこの地で、
江戸の方角を呪んで自決したと伝えられています。
さいの木神社は3人の庄屋の遺徳を讃えたものです。
西尾六右衛門の墓は西町霊園の中にあり、
いまでも手厚く供養されています。

4光用寺

天平19年(747)、聖武天皇の時代に僧・行基が創建したと伝えられる古寺です。
本堂の裏に、「悪七兵衛(あくしちびょうえ)」と異名を持つ平家方の猛将で、
屋島の合戦でも功名をたて、
近松門左衛門の浄瑠璃『出世景清』にも描かれた平景清(たいらのかげきよ)とその郎党の墓があります。

5中島大水道跡

中島大水道は明治32年(1899) の淀川改修まで立派に機能していました。
東淀川区の旧淡路村から発した流路は、
このあたりで東海道新幹線の用地になり、
新大阪駅も中島大水道の真上に建設されました。
西方の水道跡は道路として整備され、
―部は緑道として残っています。

6野々宮稲荷大神

野々宮稲荷大神の境内に「力石」が安置されています。
米1俵ぐらい(約60kg)の重さだといわれ、
江戸時代では村の青年が持ち上げてみせ、
十分に力のついたことを示して、
大人の仲間入りを認めれたとされています。

7立森瑞神(ずいじん)・野中の巳(みい)さん

蛇を主神とする神社で、
地元では「野中の巳さん」と呼ばれて親しまれています。
大正末期に村人の夢に現れた蛇が「私を祀れば水不足にならない」と告げ、
村で祀ったのが創始です。
また、蛇は弁財天の使いとされ、 商売繁盛の神として信仰を集めています。
さらに、境内には小狸三体(オタケ・八郎・長𠮷大明神)があり、
安産・病気平癒の神として信仰されています。

8 正通院

江戸時代中頃に天満の惣年寄を務めた金谷歳次郎が創建した曹洞宗の寺で、
金谷家から出た三碩(さんせき)、興般(こうはん)などの学者や文人の墓や、
江戸時代後期の日本画家で日本各地の名所図会の挿絵を描いて人気となった蔀関月(しとみかんげつ)の墓があります。

9木寺子安地蔵尊

木寺村は明治16 年(1883)に川口新家村と合併して、
それぞれの旧村名から1 字ずつとって木川村となり、
いまの地名に受け継がれています。

スポット新福島







地図 スポット情報 スポット新町(西区) MAP新町
     まちさんぽ新町      小倉屋山本

創業は嘉永元年(1848年)の老舗。
「をぐら昆布」こと松原久七から暖簾分けを許された初代山本利助が「新町橋小倉屋」として独立。
のち「小倉屋山本」と社名を変更し、現在に至る。
道南の真昆布のみを使用。
山崎豊子は3代目山本利助の実妹。
処女作「暖簾」は、生家の小倉屋山本がモデルとなっ た昆布屋を舞台としている。
旧制女専を卒業後、毎日新聞社に入社した。
大阪本社調査部を経て1945年(昭和20年)学芸部に勤務する。

       難波神社

四方鳥居と楼門付き拝殿 秀吉時代当時、大坂で四方鳥居を許可されたのは、住吉大社とここだけ。
また、楼門付きの拝殿を許されたのは、難波神社だけ。
それほど特別に扱われた神社だったのです。
秀吉は堺まで市街地にしたかった。
そのエリアに難波神社があったために移転。
今の地に社地を持っていなかった。
移転料2,000石  大阪城 34万坪 上本町にあり八町四方23万坪大坂でも巨大な敷地を持っていた。
住吉神社 4町9町 高津宮 6町4方 一町は100m四方

       文楽発祥の地

一時期、歌舞伎の人気をしのいでいた人形浄瑠璃だが、竹本・豊竹の両座の没落で急速に衰えていく。それを蘇生させたのが植村文楽軒で、二代目文楽軒のとき、稲荷神社(難波神社末社)に小屋を構える(文化8年1811)。途中、天保の改革のあおりで中断もありましたが、明治4年(1871)まで続き文楽軒の芝居と呼ばれ、これが今日の「文楽」の名称のもととなる。

       座間神社


かつては淀川南岸の渡辺の地、現在の中央区石町に鎮座していた。
現在は御旅所となっており、行宮が鎮座する。
神功皇后が三韓征伐より帰還された際、この地に坐摩神を祀ったのが当社の創祀という。
延喜式神名帳では、西成郡で唯一の大社であり、摂津国一宮を称する。
鳥居は大小3つの鳥居が横に組み合わさった三鳥居。
豊臣秀吉の大阪築城に当たって替え地を命じられ、寛政年間に船場の現社地へ遷座した。

       陶器神社

座間神社の境内にある陶器神社はかつて西横堀川に多かった陶器問屋の守護神とされる。

       渡辺姓発祥地

ここは大坂を活動拠点にした中世の武士団「渡辺党」の本拠地で、
渡辺とは「全国渡っていった」という意味通り、
全国苗字ランキング5位、100万人以上。
平安時代嵯峨天皇の十二男、
源融の孫の当たる源綱が渡辺綱を名乗り渡辺党なる特殊な武士団を形成。
1989年(平成元年)、南区と東区が統合して中央区になった。
東区渡辺町は中央区久太郎町となることになった。
「名家発祥の地名がなくなってしまうことになったのだが、
そのころ渡辺町に住んでいたのは先代宮司夫妻だけ」。
周囲はオフィス街。夜間人口はたった2人。
「これでは声が届かない、と氏子さんや崇敬者の協力を得まして」、
由緒ある地名を残してほしいと嘆願し、
かろうじて境内地のみ「久太郎町4丁目渡辺」という形で残った。
現在座間神社は58代宮司でもちろん渡辺さん。

       上方落語寄席発祥の地


江戸時代後期、当社境内に上方落語の中興の祖である初代桂文治が
初めて開いた咄の席が上方落語の寄席興業の始まりとされる。
落語の起源としては、江戸時代中期に、
京都の初代露の五郎兵衛や大阪の初代米沢彦八が道端に舞台を設け、
自作の噺を披露して銭を稼いだ「辻咄」(つじばなし)や「軽口」と云われている。
上方は辻話、江戸は武士、商家等に及ばれる接待文化。

       立売堀川跡

立売堀は、寛永3年(1626)に開削されて完成。
立売堀川には、大坂冬の陣・夏の陣で伊達氏がこの付近に堀をつくり陣地を構えていたこと、
その跡を掘り足して川としたことからはじめは伊達堀(だてぼり)と呼んでいたが、
そのうち「いたちぼり」と呼ばれるようになった。
後に材木の立売りが許されるようになったので
漢字のみ「立売堀」と改められた、とのことである。

●いちょう並木「大阪歴史探訪199」立売堀川の名残(ー埋め立てられた堀川)より
昭和31(1956)年まで、 現在の阿波座の南には立売堀川とよばれる堀川がありました。
元和6(1620)年から寛永3 (1626)年に開削された堀川で、
今の中央大通と長堀 通との間を、
東の西横堀川(おおさか歴史探訪 183「西横堀川の名残」)から西の百間堀川まで、
東から西へ流れていました。
現在ではマンションや事務所ビルが所狭しと建ち並んでいますが、
元禄13(1700) 年頃の記録によると、
付近には阿波や日向(ひゅうが)の材木問屋、薪(たきぎ)問屋、櫂(かい)屋、船板屋があり、
また南の新町には遊郭があって、今よりもずっと賑やかな場所でした。
立売堀という地名を聞いたことがある方も多いと思いますが、
その名の由来には諸説あります。
大坂の陣の時に伊達(だて)家の陣所に掘られた堀跡を
さらに掘り足して堀川としたことから伊達(だて)堀と言われるようになり、
その後、字音(じおん)のままに伊達(いたち)堀と呼ばれるようになったという説や、
北側の阿波座の居住域と
南側の新町の遊郭とを分けるとし居断堀(いたちぼり)と呼ばれるようになったなどと言われています。
また一方、近辺で材木の立売、
すなわち一定の場所に店を構えず路傍などで商売することが許されたことから
立売の文字が当てられるようになったとも言われています。
立売堀の西端にあるトコトコダンダンという名前の公園には、
かつてあった立売堀川の堤防コンクリートの一部が残されています。
また、東端近く、現在の四つ橋筋との交差点付近には立売堀川跡の石碑があります。
名残を示すものは僅かですが、ここに堀川のあったことを今に伝えています。
(大阪市教育委員会事務局 文化財保護課)

地図 スポット情報 住吉東 MAP住吉東
     歴史街歩き住吉東      住吉大社の特徴        1.東大禅寺

黄檗宗萬福寺の末寺。
本尊は毘沙門天で、弘法大師作といわれている。
ここは小高い岡の上にお寺が建てられている。
丘の上ということは、なんとここは住吉古墳群のひとつ弁天塚古墳の上に建てられている事が分かった。

歴史街歩き住吉東 (索引)        2.荘厳浄土寺

創建は10世紀と伝えられ、本尊は不動明王です。
白河天皇の勅により永保4年(1084)に津守国基(つもりくにもと/住吉大社神主)が再建したさいに、「七宝荘厳極楽浄土‥」の銘がある金札が土中から発見され、それを寺号とした。
南朝の後村上天皇は、父・後醍醐天皇追善のために当寺にて法要を行い、五色仏舎利と和歌を奉納した。
四天王寺とならぶ壮麗な寺院でありましたが、戦火などにあって荒廃する。現在のお堂は天和2年(1682)の再建。

歴史街歩き住吉東 (索引)        3.浄光寺の油かけ地蔵

普通、地蔵尊には水をかけてお祈りしますが、ここでは油をかけて無病息災を祈願します。
文久2年(1862)に疫病が流行したときに、地蔵に回復祈願していた老婆が、息子の病気祈願の際「油をかければよい」との夢のお告げをうけ、その通りにすると病が回復したのが由来とされている。

歴史街歩き住吉東 (索引)        4.東福寺

真言宗のお寺で、創建時は熊野街道沿いに建っていました。
本尊の毘沙門天王は、南朝の名将・楠木正成が、千早城で戦勝祈願した念持仏といわれています。
秘仏のため、正月3日間に限って御開帳が行われる。
他に室町期の作といわれる四天王像や、境内の親子地蔵は有名である。

歴史街歩き住吉東 (索引)        5.熊野街道

熊野街道は、渡辺津から熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣に利用された街道の総称。
平安時代中期ごろから、阿弥陀信仰の聖地として信仰を集める。
室町時代以降は武士や庶民の参詣が盛んとなる。
浄土は熊野灘の向こう、太平洋の彼方にあり、三山を巡ることで浄土を垣間見ることが出来るのではないか。

歴史街歩き住吉東 (索引)        6.住之江味噌(池田屋本舖)

歴史街歩き住吉東 (索引)        7.哀愍寺(あいみんじ)・ちぎり地蔵

天正元年(1573)、武田信玄の一族という王念が開基した、浄土宗知恩院の末寺です。
寺の本尊の阿弥陀如来は恵心僧都の作と伝えられています。
ちぎり地蔵は、土地の人は「ちぎりさん」と親しみをこめて呼びますが、別名を十徳地蔵といい、女人安産、水火安全、諸病消除などの十の願いをかなえてくれるそうです。

歴史街歩き住吉東 (索引)        8.一休禅師牀莱庵(しょうさいあん)跡

一休宗純(1394~1481)が、晩年に仮棲まいしたところです。
一休は北朝最後の天皇・後小松天皇の落胤と伝えられ、天衣無縫・反骨で終始、京都・奈良、堺などに移り住みました。
文明元年(1469)に住吉に移り住む。
このとき、なんと75歳。
堺の豪商・尾和宋臨が建立した庵に弟子ともども入り、雲門庵と称しました。
更に数年後、この空き地の一角に庵をつくり牀莱庵と号しました。
仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の女性である森侍者(森女)という。
臨終の際には「死にとうない」と述べたと伝わる。
  「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」

歴史街歩き住吉東 (索引)        9.津守寺跡

住吉大社歴代の宮司であった津守氏の氏寺で、延喜元年(901)に創建されて、瑠璃寺とも称しました。
神宮寺・荘厳浄土寺とともに住吉三大寺の一つに数えられていましたが、明治初年廃寺となり、今は墨江小学校に碑が残るのみです。
熊野街道の津守王子が祀られていたのもこの付近と伝えられています。
また、発掘調査の結果では、白鳳時代(7世紀後半)の瓦や土器が発見され、津守寺以前にも古代の寺の存在があったと推定されています。

歴史街歩き住吉東 (索引)        10.住吉行宮

南朝の後村上天皇は正平6年(1351)、北朝を奉じる足利義詮が降伏を申し出たので、翌年奈良県賀名生から住吉大社宮司津守国夏邸内の正印殿に移り、ここを行宮(行幸時の仮の寓居)としました。
天皇はその後、たびたび行幸しましたが、ついに京都奪還はならずこの地で亡くなりました。
次の長慶天皇が即位したのもこの地です。
また慶長19年(1614)の大坂冬の陣では徳川家康の本陣にもなっています。

歴史街歩き住吉東 (索引)        11.大歳社(おおとししゃ)

収穫の神であるところから、集金満足、商売繁盛、家内安全、諸願成就に神徳あり。
ここで「初辰まいり」を締めくくる。
境内の「おもかる石」。
 願い事を祈念し、この石を持ち上げた時、軽く感じれば願いが叶い、重く感じれば叶わないといわれています。
不思議な試し石です

歴史街歩き住吉東 (索引)        12.細江川 (現・細井川

かつて依羅池および旧寺岡村 (現在の住吉区長居) を水源とする自然の川。
住吉神社の傍らから大阪湾に注いでいた。
河口には住吉津が開かれ、重要な港になっていた。
遣隋使や遣唐使は、住吉大社で住吉大神に祈りを捧げた後、住吉津から出発し、難波津を経由して九州へ向かった。
遣唐使船が4隻で構成されたとも伝わる

歴史街歩き住吉東 (索引)        12.浅沢社(あさざわしゃ)

芸事や美容の願いに福を授かる。
女性の守護神。そのため奉納者は芸人が多い。
カキツバタの名称として万葉集にも詠まれた。
杜若の合い花言葉「幸運を招く」。

歴史街歩き住吉東 (索引) 地図 スポット情報        13住吉神社

神功皇后が住吉三神を祀るに適した場所を探しているとき住吉三神自自身がこの辺りで皇后の船を止め 「このあたりでマジで住み良いで」といったから住みよし>住吉となった。

歴史街歩き住吉東 (索引)        慈恩寺跡

慈恩寺は津守家の菩提寺で明治維新後廃寺となりました。
この寺に有名な桜があり、延元2年(1337)に後醍醐天皇が住吉行幸の折、この桜があまりに立派であったので車駕を再び返して、桜を賞でられたので車返しの名があります。
現在はしだれ桜が植えられています。
向かいの卯の花宛は住吉大社創建に深い所縁のある花の苑で、5月の卯之葉神事の折に公開されます。

歴史街歩き住吉東 (索引)        すみよしうさぎ

社伝によると神功皇后摂政11年(211)卯の年卯月卯日の鎮斎とある。
その縁から「うさぎ」が神使とされ、境内には「手水舎」には、うさぎの手水口が鎮座。
さらに、「第四本宮」前にある「住吉神兎(すみよしうさぎ)」石像は、卯年の2011年に奉納された人気スポットで、無病息災を祈願し、腰や頭など気になるところを撫でる「撫でうさぎ」がある。
1800年手を合わせている。
世界でも希である。広さは約3万坪ある。

歴史街歩き住吉東 (索引)        住吉大社の特徴

口「古事記」「日本書紀」に鎮座由来の神話を戴せる唯一の神社
  鎮座由来の神話一神功皇后の新羅遠征伝承 
  口仲裏天皇が熊襲征伐について神託を受けたところ、
  見知らぬ神(住吉三神:底簡之男、中簡之男、表簡之男)が神功皇后に憑りついて、新羅を討てと神託を下す。
口神託を信じなかった天皇は死に、神功皇后は神託に従って新羅を服属させた。遠征の成功後長門と摂津に祭らる。
第一本宮 底筒男命 (そこつつのをのみこと)
第二本宮 中筒男命 (なかつつのをのみこと)
第三本宮 表筒男命 (うはつつのをのみこと)
第四本宮 息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと) - 神功皇后 (じんぐうこうごう)
配置に縦に3本宮が並び第4本宮だけがその横にあり、大阪市内唯一の国宝建造物の御本殿は「住吉造」といわれている。
あたかも大海をすすむ船団のように立ち並び縦は魚鱗の備え。

歴史街歩き住吉東 (索引)        多くの灯籠

全国の各業者から奉納された境内の燈籠は、634基あります。当時は海上守護の祈願をこめて寄進したもので、広告塔としての意味合が強かったといわれている。
優雅で大きな形をしたものが多いです。
また題字は名筆家に刻んでもらった。
各石燈籠の銘文からは 比較的新しい全国各地の廻船問屋や様々な、まで)鹿児島(から南は薩摩)。交易の様子を知ることが

歴史街歩き住吉東 (索引)        約2,300社の総本宮

摂津国一宮 住吉大社 坐摩神社  建部大社(たけべたいしゃ)近江国一宮 上賀茂神社 山城国一宮  河内国一宮  枚岡神社 和泉国一宮 大鳥大社

歴史街歩き住吉東 (索引)        反橋(太鼓橋)

慶長年間に淀君が奉納したものであると云われています。
昔はこの橋の近くまで大阪湾の入り江が広がっており、入り江の対岸と本殿とを結ぶ橋として架けられたとされ、反橋(太鼓橋)の下の池は入り江だった当時の名残と云われている。
「反り」は地上と天上の神の国とをつなぐ掛け橋として虹にたとえた為で、反橋を渡るのは神さまに近づくのに罪や穢 (けが) れを祓 (はら) い清める意味があるとされている。

歴史街歩き住吉東 (索引) 地図 スポット情報 スポット千林
千林商店街食べ歩き
      千林商店街でランチのお店
大勢では入れないかもしれないので、各自お好きな店を選んでね。

料理とお酒のマリアージュが魅力!こだわりの日本酒を取り揃える和食料理店。ランチコース¥1900~2300

フライのトッピングが豪快、がっつり食べたい時にオススメのカレー専門店。カレー¥600~1300

淡麗醤油ラーメンに鷄チャーシュートッピング がオススメ!らしい

「麺や輝」出身の店主が2021年1月16日にオープン。 輝出身は多く、堀江の「麺や拓」も出身

煮込んだ煮豚がゴロっと入った「トロこつ一本らー麺」が名物のラーメン屋

都島区、千林大宮駅からすぐの居酒屋。昼のみツアー。土手焼きは抜群に美味いなど口コミ。ランチ ~2000円

1階はお肉屋さん。新鮮な焼肉が食べられると食通にも人気の焼肉屋。ランチ~1000円

森小路~千林の旧京街道に面するお洒落な懐石料理店。ランチ~2000円。ランチコースがコスパ高くて満足?? 一つ一つ丁寧な調理で熟女の女子会にGood♪との口コミ
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