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古代の大阪
上町台地の変遷
河内湾(5000年〜4000年前)
河内湖(2000年前)
大阪平野が生まれる(1500年前)
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難波宮
難波宮(なにわのみや)
飛鳥〜奈良時代にかけて、大阪が日本の都であったことを示す前後期の宮殿の跡。(写真は右が北になる)
ふたつの難波宮
■前期難波宮
『日本書記』大化改新後に造営された飛鳥時代の難波宮
(652)難波長柄豊碕宮
■後期難波宮
『続日本紀』聖武天皇が遷都した奈良暁代の難波宮
前期難波宮
(1)歴史
645年 6月 乙巳の変 (
大化の改新
)、孝徳天皇即位
12月 難波に遷都
650年 10月 宮の境界の標識立てる (造営開始)
652年 9月難波長柄豊碕宮
(前期難波宮)完成
653年 中大兄皇子ら、飛鳥に戻る
654年 10月 難波長柄豊碕宮で
孝徳天皇逝去(せいきょ)
大化の改新から9年
655年 正月 飛鳥で斉明天皇即位
686年 正月 難波の大蔵省から出火、
宮室全焼
完成から35年
後期難波宮
724 3月 聖武天皇即位
726 10月 藤原宇合、難波宮造営に着手
740 12月 恭仁京に遷る
744 2月難波を都と定める
745 1月 紫香楽官
5月平城宮に還都 この間1年
752 4月 東大寺開眼保養
784 11月 桓武天皇、長岡遷都 難波宮解体、移築
造営着手から約60年で解体
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大坂本願寺
蓮如上人
蓮如上人が現在大阪城にあたる場所に坊舎を建てる。
のちに大阪(石山)本願寺となる
大坂本願寺ジオラマ
大坂本願寺(1533〜1580)
石山合戦の主役
石山合戦の経緯
【石山合戦後の経緯】
★大坂(石山)本願寺(大阪城付近)に蓮如上人が建立)
信長との石山合戦が10年間も続き、本願寺門徒の信仰の強力さを内外に示した。
天正8年(1580)顕如、信長と和議。
★その本願寺が石山を退去して紀州鷺森本願寺に移転、石山本願寺の堂舎は全て炎上する。
天正11年 (1583)秀吉は大阪城築城。
その後泉州貝塚本願寺へ、そして天正13年(1585)大阪天満川崎へ移り、阿弥陀堂と十間四面の御影堂が落成する。
★天正19年(1597)現在の場所京都堀川へ移り京都本願寺の御影堂と阿弥陀堂とが完成した。
頼山陽が「日本外史」で「抜き難し、南無六字城」と讃えている。
本願寺の分裂
【本願寺の分裂】
ところが、石山台戦の終結方法をめぐり顕如と長男教如の意見が対立。
江戸時代に巨大宗教本願寺が分裂し、「西本願寺(顕如派)」と「東本願寺(教如派)」に分かれる。
★別院本堂正面に、本願寺第22代現如上人御染筆による 「六字城」の額が掲げられている。
まさしく別院が石山本願寺以来の伝統を受け継いでいることを示しているという。
大阪城の断面(本願寺の上に城が造られた)
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その後の大阪城
豊臣秀吉
関ヶ原の戦い
大阪冬の陣・夏の陣
明治維新
第2次世界大戦
大阪城の断面(本願寺の上に城が造られた)
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