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本町
御霊神社
(ごりようじんじや)
★船場言葉の御寮人(商家の奥さん)と語呂が通じるため、船場の人々から"御霊さん(ごりようさん)"や"御霊はん"と呼び親しまれてきた。
★始めは円(つぶら)神社といい産土神 (うぶすなしん)を祀っていたが、
のちに応神天皇と源正霊神(武勇に優れた鎌倉権五郎是政の神霊)を合祀して御霊神社となった。
厄除け、縁結びの神様として知られている。
★境内には、
「御霊文楽座跡」
の碑がある。
明治17年 (1884)から大正15年(1926)に焼失するまで、
植村文楽軒を座主とする人形浄瑠碑文楽座がこの神社の境内で興行、"御霊文楽"の名で親しまれた。
★周辺には観客を目当てに料亭の魚福や天ぷらの天寅、どじょうの美濃庄、うどんの美々卯などの店が軒を並べ、大阪人の娯楽と社交の場となっていたといわれる。
船場言葉
船場言葉(せんばことば)は、大阪市の中心業務地区である船場の商家で用いられた言葉。
昭和中期まで、折り目正しい大阪弁の代表格として意識されていた。
船場商人独特の呼称の例
主人一族への呼びかけ
だんさん・だなはん(主人)
隠居後は、ごいんきょはん。
ごりょんさん(主人の妻)
ぼんさん・ぼんぼん(主人の息子)
複数いる場合、あにぼんさん、なかぼんさん、こぼんさん。
いとさん・いとはん・とおはん(主人の娘)
二人の場合は、いとさん、こいさん。
奉公人の呼称
ばんとはん(番頭)
各人を呼ぶ時は名前に「どん」を付けた。(例:五助どん)
でっちさん・ぼんさん(丁稚)
おんばはん(乳母)、もりさん(子守り)
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備後町
O綿業会館
綿業会館 (めんぎょうかいかん) 中央区備後町二丁目 館内見学は普段は不可 (事前予約制、毎月第四土曜日(但し、12月は第二土曜日)、有料) 大阪の都市には沢山の宝が散りばめられている。なかでも綿業会館は特大のダイアモンドだ。当時大阪は東洋のマンチェスターと呼ばれ、基幹産業の一つは紡績業だった。船場は「いとへん」の街、繊維問屋が集まって大いに栄えた。綿業会館はそんな船場の栄華を今に伝える街のシンポルだ。 設計は渡辺節(わたなべせつ)建築事務所で、設計主任は村野藤吾である。 昭和6年(1931)日本綿業倶楽部の施設として建設。アメリカのオフィスビル風でさりげないが、茶褐色の落ち着いた外観。内部は完成度の高い異なる様式の諸室からなり、中でもジヤコビアン様式(イギリスの初期ルネッサンス風)と言われる2階談話室は、全室中最も豪華な部屋で絢燗を極める。 渡辺節の最高傑作であり、近代建築の精華。食堂には村野らしい造形が見られる。 村野の渡辺節建築事務所での最後の仕事となった。 1階ホールには遺言と共に寄付金を近した東洋紡専務・岡常夫氏の銅像が設置されている。 昭和7年(1932)リットン調査団が来館。館内に写真の展示あり。 昭和6年(1931)築、【国の重要文化財】
I生駒ビルヂング
★中央区平野町二丁目
堺筋にあってひときわ目を引く存在。
平野町交差点の南西角にある。
大正から昭和に関西で活躍した建築家・宗兵蔵(そうひょうぞう)が設計し、
昭和5年(1930) に竣工した。
かつては大阪のメインストリートであった堺筋におけるランドマーク的存在。
スクラッチタイルの外壁に
テラコッタの窓台、
鷲の彫刻、
振り子時計のデザイ ンなど、
宗事務所らしい密度の高い作品である。
鉄筋コンクリート造り5階建ての
屋上塔屋に大時計
を付ける。
重厚かつ華やかで、内部はアール・デコ調の意匠が美しい。
老舗、生駒時計店の建物である。
交差点に面したビル最上部に将棋の駒の形の枠に「生」の文字が見える。
戦時中、金属供出にあったが、戦後復元された。
時計店は西憐のビルで営業を続けており、このビルは現在サービスオフィスとして利用されている。
テラコッタ:建物の外壁に用いる装飾用の素焼製品。主に玄関や窓回りの複雑な装飾に用いられる。
昭和5年(1930)築、[国登録有形文化財]
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